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マドンナへとつながる欲望の系譜

増殖のメカニズムにふれる

1990年、マドンナがその鍛えぬかれたからだにジャン=ポール・ゴルティエのデザインした尖ったコーン型のブラジャーをつけて、パリ・コンサートの会場に登場した。古くさい乳房信仰を打ち壊すようなパフォーマンスだった。タマラ・ド・レンピッカが亡くなってから、ちょうど10年後のことだ。

たしかにマドンナの姿は、レンピッカの描いた青銅色の乳房を彷彿とさせた。じっさい、マドンナはレンピッカ作品の熱心な蒐集家であり、たびたびみずからの楽曲のPV(プロモーションビデオ)にその絵を登場させてきた。

同じ年、アルバムから先行発売された楽曲『ヴォーグ』のPVでは、モノクローム映像のなかにレンピッカの絵が象徴的に映しだされている。それにかぶせるようにして、マドンナをはじめダンサーたちのヴォーギングが披露された。

レンピッカの生きた1930年代初期の社交ダンスを原形とするこのダンスは、その後、LGBTコミュニティを中心としたダンス・ミュージックにひき継がれ、1980年代後半以降にアメリカ都市部のクラブシーンで展開されることになった。背景にあるのは都市のマイノリティ文化である。
マドンナが踊ることで、ヴォーギングは力強さと切れをもった上質のエンターテインメントに昇華されているが、本来は上流階級のしぐさや嗜好をパロディ化したものである。ヴォーギングの魅力は、その模造的ないかがわしさに根ざしているといってもいいだろう。揶揄することで生まれる大衆的な笑いや愉悦がそこにあって、いわゆるクィア・ダンスの一種だ。

ジェニー・リヴィングストン監督のドキュメンタリー映画『パリ、夜は眠らない』(1990)には、当時のクィア・カルチャーの実像がリアルに描きだされている。

英語のクィア(queer)は奇妙な、風変わりな、あやしいといった意味をもつ言葉で、これが転じて偽造酒や男性同性愛者のこともさすようになった。
かつては侮蔑的なニュアンスが強かったが、1990年代にはいるとセクシャル・マイノリティの人たちによってラディカルで自己肯定的な文脈のなかで、この言葉がつかわれはじめた。ヴォーギングはメインストリームのダンス批評では相手にもされないが、マイノリティの生き方とともに、しだいに一般にも知られるものとなり、広い支持をえるようになった。ただし、マイノリティによる対抗的なクィア・カルチャーを表舞台におしあげたのは、メインストリームにいる人たちだったという皮肉な側面もある。

資本主義に抵抗するような文化が、その拡張過程で抵抗の対象に飲みこまれていくという逆説的な現象は、それまでにもしばしば起こってきた。女性の社会進出を例にとれば、そこには低賃金労働者の確保という資本家の論理が強く影響している。

年代別に女性の就業率を見ると、日本では1970年代なかばから上昇がはじまっているが、くわしく見れば、女性の正規雇用率はほとんど変わらないまま、非正規雇用率ばかりが急上昇している。ちょうどこの時期から経済は低成長時代に突入し、1980年代にはいると所得分配の不平等をあらわすジニ係数が拡大していくことになった。この傾向は80年代後半のバブル崩壊以降も変わらずにつづいていく。
経済が長期低迷し、男性の実質賃金が抑えられたままという状況で、家計を維持するために女性は働かざるをえないという事情がすけて見える。社会における女性の権利獲得や自由拡大は、資本主義を維持していくための方便でもあった。

いったいどんなメカニズムが、資本主義という身体のなかで作動しているのか。

たとえば顕花植物が咲かせる花は、その色彩や香りによって蝶を誘う。生物学的な視点からすれば、それらはたんに植物の受粉システムを支える装置であり、蝶の認知と運動をうながすためのツールにすぎない。
ところがこの花を、人は美しいとたたえ、ときにはそれに祝福や哀悼の意味さえもたせる。その感覚は、生存のためのメカニズムから遊離したところにある。
資本主義という得体のしれない運動のなかにも、こうした遊離性を探ることができるだろう。
生産性の向上や資本の拡大という経済活動のいっぽうで、それらとは直接的な関係をもたない文化や流行がはぐくまれ、その成長とともに資本主義と深い関係をむすんでいく。考えてみれば資本主義の歴史は、市場の外部にあるものを商品に変えていくダイナミズムにあった。そうした風景を探ることで、増殖する欲望のメカニズムにふれることができるのではないだろうか。

資本主義と市場経済

資本主義という言葉は、そもそもこれをどのように定義するかが、とてもむずかしい。たんに経済システムの一形態を超えて、民主主義や市場経済、グローバル金融、あるいは情報社会までをも飲みこみ、巨大な運動体となっている。はたしてこのモンスターは豊かさを運んできたのか、幸せをもたらしたのか。そう問われて、もはや素直にうなずける状況ではない。

この言葉をどのように解釈するかについて、フェルナン・ブローデルが示した考え方がある。
ブローデルはアナール学派の歴史家として知られるが、この学派に理論的な統一性があるわけではない。あえていえば、歴史の舞台で長期間にわたって継続する現象を研究対象としてきた一派をさす。歴史的な事件や人物についての叙述というより、生活文化や社会経済の事象に深い関心をよせてきたわけだ。その中心的存在であるブローデルは、十五世紀から十八世紀までのヨーロッパをつぶさに観察し、そのころ台頭してきた市場経済をふたつにわけている。

ひとつは、ヨーロッパの都市で発展した市=マーケットで見られるような交換経済である。都市周辺部から特産物などが市にもちこまれ、自由な交換の場をつうじて、その価格が調整されていくシステムといえる。需要と供給という関係のなかで、自動的に価格バランスをとろうとする力が働いているのである。ここでは貨幣を媒介としながら、それはあくまで交換を手助けするための補助的な役割をになっているにすぎない。
ところがもうひとつの市場経済では、この貨幣が膨大な量にふくれあがり、商人たちによる取引を主導するかたちをとる。組織的に資本を動かし、投機的な色彩を強め、きわめて広範囲の地域で取引がおこなわれる。後者の市場経済を、ブローデルは資本主義ととらえた。

経済学の視点からすれば、これだけで資本主義を定義できたわけではないだろう。労働力の問題や独占の問題など、こぼれ落ちていく要素も多い。
しかし、この歴史的分析は資本主義の怪物性を予見させるものである。ブローデルのいう市場経済のなかでは比較的穏やかに調整されていた欲望が、資本主義という大舞台ではかぎりなく膨張し、歯止めがきかなくなる。企業はたえず利潤を追求し、拡張運動をくり広げるのである。資本主義にはこの病的ともいえる暴走のメカニズムが組みこまれていて、それがさまざまな問題を生んできた。

極端な富の偏在や突然の株価暴落、都市化と過疎化、失業、移民、テロといった出来事が、世界各地で起こっている。戦争さえもが資本主義のなかにとりこまれてから、ずいぶん長い時間がすぎた。
それらの出来事をリアルな映像によって知ることもあれば、すぐそばで目のあたりにするもあるだろう。遠い世界のことではなく、自分自身にもふりかかっている問題であるにもかかわらず、事実の裏側でなにが起こっているのかを知るのは、情報が氾濫するこの社会にあってさえきわめてむずかしい。

それぞれの出来事のあいだには目には見えない相関関係があるのかもしれないが、曖昧でぼんやりしている。膨大なデータを解析し、その謎を解明していくことはひとつの手法ではあるだろう。そのいっぽうで、まったく別の視点からの観察によって、それを探るという方法論も試されるべきだ。

これは資本主義に関連した記述であり、経済学者らの思想も登場する。しかし、現在の経済状況を分析したり、将来を予測したりするような内容ではない。歴史を行き来しながら経済活動の裏側で見え隠れする社会文化を描き、そこに巣食っている幽霊のような存在に接近しようと考えている。そこで描こうとしているのは、経済活動を軸とした社会情勢と、人間存在との関係とでもいうべきものだ。いいかえれば実証主義的な資本主義論ではなく、現象学的あるいは隠喩的な資本主義論の試みである。資本主義と銘打ちながら、経済学というよりも社会学や地理学、あるいは身体論に近い。

21世紀にはいって以降、世界から疎外されている人々の存在がクローズアップされてきた。明るい未来というものを、もはや単純に想像しにくくなったいま、あらためてモンスターが歩いた欲望の風景をたどることで、なんらかの直感や感情がわき起こってはきはしないだろうか。そのいかがわしさごと、肯定していくことはできないのか。それには欲望のジニオロジー(系譜)という視点から、巨大化した資本主義と人間の関係をあらためて見つめなおすことが有効かもしれない。そこに立ちあがってくるのは、いま僕たちにとって他者とはなんなのか、どうすれば他者との回路をとりもどせるのかということなのだろう。

             (序章 資本主義とエロティシズム 4/4)

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