読むと人生に希望を見出せる「夜と霧」

「夜と霧 新訳」(ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房 2002年出版)を読んで感じたことを書く。
本のあらすじや著者の概要については割愛させていただく(ググればすぐ出てくるよ!)
特に印象に残った部分に付箋をつけながら読んでいたので、その部分から考えたことや自分の経験と結びつけた話を6項目記していく。
本文に入る前にまず最初に言っておきたいのだが、私はこの本を読んで、自分の人生に対する姿勢や生きる軸が大きく変わり、同時に人生に希望を見出し救われた気持ちになった。
21歳の私はもう自分の軸が完成しているような気がしていたが、この本を読みながら、自分の中で新たに強固で屈しない軸へと生まれ変わっていくのを感じた。(ここから実践しなければ、、、)
行き詰まって暗闇の中にいてそこから脱したい、軸を持って強く生きたい、弱い自分を変えたいと考えている人間は絶対に読むべき一冊だ。

①p61 3行目
「愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ」

これは、収容所で極限状態にあった著者が想像の中で愛する妻と会話するシーンに出てくる言葉だ。このとき著者は、愛は妻の精神的な存在に深く関わりがあり、妻が現実に生きていて自分のそばにいるということは問題ではないということに気がつく。

私はこの部分を読み、愛の本質を発見してしまったと感じた。現代の生活で例えるならば、恋人からの返信速度やSNSでどの程度自分のことを載せてくれるかということで愛を量るのは大変ナンセンスであるということだ。本当の愛を持ち合わせているのであれば、あなたは恋人と離れていても想像の中で安らぎを伴う会話ができるはずだ。(自分で書いておきながら、耳の痛い話、、、)


②p110 14行目
「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。」

これは、著者が強制収容所の中にいても人に対する思いやりや信念に基づく優しさを持ち続けた人がいたことを記している部分に出てくる言葉だ。外的な条件に弄ばれ、典型的な堕落した被収容者になることもできる中で、彼らはそれを拒否して自分が信じる思いやりのある人間として振る舞う自由を選択した。

私はこの部分を読み、自分がこの先どのような環境に身を置いても、自分が信じる心を持つ人間として行動すると決意した。私は、相手を思いやり、相手の声に耳を傾けられる人間でありたい。

また、この部分を読んだとき同時に、私が嫌がらせを受けたときに勇気を持って私を救ってくれたSちゃんのことを思い出した。

小学3年生のとき、クラスは学級崩壊しており、学び舎として全く機能していなかった。暴力的な数名がクラスを牛耳っており、彼らに逆らえば何をされるかわからない状態だった。ある時期、貸した文房具を返してくれないという嫌がらせを毎日されることがあった。気弱で自分の意見を言えない私は、返してもらえないと分かりながらも逆らうことができず、毎日自分の文房具を彼らに差し出していた。側から見ると目立った嫌がらせではないため、周りの人間はその嫌がらせに気づいていなかったが、あるとき私はついに耐えかねて教室でメソメソと泣いてしまった。
その時、私の隣に座っていたSちゃんが、なんといじめっ子に対して
「〇〇ちゃん(私)泣いてるじゃん。〇〇ちゃんのもの使うなら私の鉛筆貸すからこれ使いなよ。」
と言っていじめっ子に彼女の鉛筆を差し出したのだ。
私はこの瞬間、驚き、救われ、憧れた。
Sちゃんの正義ある信念を突きつけられたいじめっ子は、嫌そうな顔をしながら私に鉛筆を返した。
私を庇うことで彼女が嫌がらせを受けるかもしれないにも関わらず、彼女はここで彼女の信念に従い行動を選択したのである。
わずか9歳でこの選択をした彼女を私は今でも尊敬している。
私はこの時以来、与えられた環境の中にいるとき、自分の信念で振る舞いを選択できていただろうか。本書を読んだことは、改めて振り返る機会となった。


③p112 3行目
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」(ドストエフスキーの言葉)
 p113 2行目
「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。」

耐え難い運命や苦悩に見舞われたとき、自分はどのように捉え、生きていくのか。その答えを、上記した言葉に見出した。
私は、真っ当に苦悩し、精神的に何事かを成し遂げなければいけない。 これは②に記したことにも通ずるが、私たちはどのような状況にあっても精神的自由(自分がどのように振る舞うか、何を軸に選択するか)が残されている。この精神的自由の中で苦悩することには意味があり、自身の内的成長に繋がるのである。


④p128 14行目
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」(ニーチェの言葉)
p129 11行目
「生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」
p130 4行目
「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、 時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」
p131 13行目
「わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。」

まず、生きる意味は一般論で語ることはできない。それは人それぞれであり、また、瞬間ごとに変化するからである。p130 4行目にあるように、生きることは私たちに具体的な状況や運命を向けてくるが、私たちはその度に異なる対応を迫られる。ときには運命を甘んじて受け入れ、ときには自分の能力や技術を発揮し、ときには苦悩の末に答えを導き出す。同じ状況は2度と繰り返されることはないため、私たちはその度にたった一つの答え(対応)を生きることに対して差し出さなければならない。
これは、抑圧された状況に限らず、私たちの現代の日常にも通じて言えることである。私たちは日々目まぐるしく変わる状況に自ら選択をして生きること(状況)に対して答えを出している(今あなたが数ある記事の中でこの文章を読んでいるようにね!)。そして、私たちにいかなる状況においても残されている精神的自由の中で、信念を持った選択をし続けることが各々にとっての生きること、総体的な生きることの意味になるのではないか。わたしはそう考えている。


⑤p144 15行目
「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。」

これは、誰でも生きている中で感じたことがある話なのではないだろうか。学校でも、会社でも、サークルでも、家族でも、やはり2つの種族が紛れ込んでいる。ここでは、収容所という人間が壊れる可能性が高い環境にいた著者がこの事実を伝えているという点に、わたしは希望を見出した。極限的に劣悪な環境においても、まともな人間は確かに存在するという希望だ(ここではあなたがまともな人間であると想定して書く)。もし今後、まともではない人間に出会い酷い目にあったとしても、わたしはまともな人間の存在を信じることができる。また、人間である自分がまともであり続けられる可能性が本書に示されていると捉えることもできる。
わたしは自分がまともな人間であり続けることにより、ふたつの種族の事実を生涯で証明すると決意した。

⑥p153 12行目
「不正を働く権利のある者などいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間をたちもどらせるには時間がかかる。そして、こういう人間を常識へとふたたび目覚めさせるために、なんとかしなければならない。」

これは、著者が収容所から解放された後に、収容所の仲間が田舎道で畑の若芽を踏みながら歩く状況に遭遇するシーンに記されている内容だ。著者が仲間の行動を指摘すると、収容所で家族を殺され損害を被った自分はこの程度の不正は許される、と逆上される。
このような経験は、程度は違えどおそらく多くの人がされたこともしたこともあるのではないだろうか。仕事で理不尽なことがあったから家族や恋人に当たり散らす、家族とうまく行かないから学校でいじめをする、など、世界中にありふれた話である。しかし、これがまかり通り、ありふれた話になってはいけないと思う。自分がどんなに酷い目に遭っても、それは何かを傷つけて良い理由にはならない。当たり前のことではあるが、p153 12行目を読み、改めて強く感じた。


最後に___
p155 7行目
「先に述べたように、強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、誰かが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりもいないことを思い知らなければならなかったのだ……。」

わたしは本書を読み、最後の章の物足りなさに少し愕然とした。p155 7行目に対する具体的な答えは、本書には記されていない。しかし、後書きまで読み、わたしは少しだけ解決の糸口が見えた。
後書きによると、著者が収容所から出たとき、彼の妻や家族はすでに亡くなっていた。彼が想像の中で何度も安らぎの会話をした妻はすでに亡くなっており、収容所を出た彼と再び会えることはなかったのだ。そのような状況に置かれた彼がなぜ収容所を出た後も自我を持ちながら生きることができたのか。
それは、彼には精神医学への愛と使命があったからではないだろうか。彼には、彼の経験と知識からしかできない仕事があった。社会に、多くの人々に、残して伝えなければいけないことがあった。それは、彼が残した本書を彼の死後に読んだわたしが思ったことである。

このことから、わたしは社会に対する使命を持つことが精神を自立させて生き続ける原動力になり得ると考えた。今まで自分の半径3メートルほどの物事や人間に対してのみ自分の影響力を自覚していたが、自らを生かす根源的な力は、社会に対して自分がどう振る舞い、志すかということに懸かっているのかもしれない。

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