明智光秀、その後
昨日、大河ドラマ「麒麟がくる」が最終回を迎えました。私的には、とても切なく感動的できた、素敵なラストでした。
「主君を討った謀反人」というイメージが強かった明智光秀を主役とした、光秀目線のドラマということで、始まる前から興味津々でした。
前半生も、本能寺の変を起こした理由も、山崎の戦いで敗れた後も。その人生のほとんどが謎に包まれている明智光秀のその後を調べてみました。
一般的に知られているのは、山崎の戦いで敗れた光秀が、居城である坂本城に戻る途中、落ち武者狩りをしていた土民に刺され、その後亡くなったという話し。それ以外に、実は生き延びていた・・・という説があります。大河ドラマでは、生存説をとっていました。(光秀らしき人が・・・という説明がありましたが、あの馬の飾り・・・光秀としか思えなかった・・)
1つは、江戸時代初期、家康、秀忠、家光という3代将軍に仕えた大僧正 天海が光秀だったという説。
天海は、日光東照宮の造営に関して、総責任者という立場でした。東照宮の建物には、明智家の家紋でもある「桔梗」が施された場所が何カ所があるそうです。また、日光で一番と言われる展望スポットの名前は「明智平」。この名前は、天海が付けたとされています。
さらに、秀忠、家光には、光秀の名前と同じ「秀」「光」という文字が使われています。そして、光秀の名付け親である乳母の春日局は、光秀の重臣 斎藤利三の娘。その春日局が天海に会った時、「お久しぶりです」と声をかけた・・・なんて逸話も残っています。
ほかにも、童謡「かごめかごめ」の歌詞には、光秀天海説についての暗号が隠されているとも言われているようです。カゴの中の鳥は、明智家の祖先、土岐氏を表わしていて、夜明けの晩が日光、東照宮の中にある家康が埋葬されている塔には、鶴と亀の飾りが施されています。日光東照宮に向かって立ち、振り向くと、後ろの正面は、光秀の肖像画がある大阪の本徳寺の場所になるんだそうです。ちなみに、その肖像画には「光秀は出家して僧になった」と書いてあるそうです。
ただ、光秀が天海だとしたら、年齢が合わないのでは・・・ということもあり、大河ドラマ「麒麟がくる」で光秀の従兄弟として登場した、娘婿の佐馬の助が天海だったという説もあるようです。ちなみに佐馬の助の兜、うさ耳が可愛かったですね♪天海は僧侶ではありますが、甲冑が残っていて、天海の兜の前立ては、麒麟の形をしています。これは鳥肌が立ちました!
もう1つは、山崎の戦いの後、岐阜に戻り、「荒深 小五郎」と改名して生き延び、関ヶ原の戦いが起こると家康に味方するために向かおうとしたのですが、途中、増水した川に、馬とともに流されてしまった・・・という説です。ちなみに、三重県出身の小説家、江戸川乱歩の小説に出てくる探偵、明智小五郎の名前は、明智光秀と、解明後の荒深小五郎からとった・・・なんていうエピソードもあるようです。
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