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本能寺の変 四国説

大河ドラマ「麒麟がくる」で、四国説はスルーなのかな・・・と思っていたら、まさかの、最終話に出てきますねぇ。。。長宗我部元親の話しが・・。

本能寺の変というのは、戦国時代最大のミステリーと言われていて、明智光秀が、なぜ謀反を起こし、主君の織田信長を討ったのかという理由は、今でも謎のままです。いろいろな説があげられていて、Wikipediaを見ると、58もの説が載っています。

その中の1つ。四国説。長宗我部元親関与説とも言います。平成26年に発見された「石谷家文書」という手紙によって、四国説が注目されることになりました。

長宗我部元親は、土佐国、現在の高知県の豪族、長宗我部家の長男として産まれました。幼い頃は色白で細身、いつも本ばかり読んで軟弱な性格だったことから、「姫若子」と呼ばれていました。長宗我部家の家臣たちは、そんな元親が将来の当主になることを心細く思っていました。

当時としては遅めのデビューですが、22歳になった元親は、長浜の戦いで初陣します。なんと、そこで元親は大活躍!!!その後、土佐の国を統一、さらには四国を統一しようと動きます。元親の強さは、慎重さと念入りな作戦だったそうです。

また、流れをつかむことに敏感で、早くから織田信長と友好関係を築いていきました。息子の名前に、信長から「信」という文字をもらってつけるほど、友好な関係でした。

その関係を仲介したのが、明智光秀でした。実は光秀の家臣、斎藤利三の姪っ子は、元親の長男の嫁でした。さらに、元親の母親は、光秀の祖先に当たる、土岐氏の出身で、光秀と元親は遠い親戚関係でした。

そんなことから、信長の下で四国地方の取り次ぎは、光秀が担当していました。元親は信長から、「攻め落とした土地は自分のものにしても良い」と言われていたので、四国を統一しようと勢力を伸ばしました。がしかし。その勢いがすごかったせいか、信長が急に、「攻め落とした土地を返上せよ」と言い始めます。

元親はそれを不服として拒否!!発見された手紙、「石谷家文書」によると、この時、光秀が元親に家臣を派遣して説得、その後、元親は「せめて土佐に近い2つの国を領土として認めて欲しい。それ以外は従います」と譲歩しました。

にも関わらず、信長は四国攻めを実行しようとしました。そして、四国攻撃軍が海を渡って四国に向かおうとしていた日、本能寺の変が起きます。そして、四国攻撃は中止となりました。つまり、遠い親戚でもある長宗我部元親を助けるために、光秀は本能寺の変を起こしたのではないか・・・というのが、たくさんある中の1つ、四国説なんだそうです。

ちなみに以前「津田信澄」の記事を書いた時にふれた、信澄の最期は、本能寺の変の直後のこと。四国攻撃軍の総大将は、織田信孝。三重県鈴鹿市にあった神戸城に入り、神戸信孝という名前でも知られています。そして副将は丹羽長秀。本能寺の変の後、明智と共謀していたのではないかと疑心暗鬼になり、津田信澄を討ちました。

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