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恥や失敗を晒す理由

そういえばこの前伊藤早紀さんのインタビューを受けたときに、結婚を3回しているという話をした。もちろん自慢話ではない。過去2回は盛大に結婚に失敗しているという話である。

最初の結婚も2回目の結婚も大昔の出来事なので、あえて公の場でしなくていい話なのだが、聞かれれば特段隠すようなことでもないと思っているので、流れで話すこともある。とくにこのnoteは有料マガジンということもあって、自分の過去の失敗や恥ずかしい話を包み隠さず記している。

なぜ誰かに頼まれたわけでもないのにこんな自分の得にもならないことを書いてしまうのだろうかと自分でも不思議に思っていたのだが、そんな折にツイッターのタイムラインにこんな投稿があがってきた。

私がネットで文章を書き続ける理由も、まさしくこれなのだ。

キラキラしたインターネットへのアンチテーゼ

失敗談や恥ずかしい話には、それを読んだ人の気持ちを楽にする効果があるように思う。私は「しくじり先生」やYouTubeの「街録ch」をよく見ているのだが、表舞台では決して語られることのない失敗談や壮絶な経験を聞いては、些細なことで落ち込んでいる自分が恥ずかしくなったり、ばかばかしくなったりしている。

かつてインターネットは、こういった人が表では見せない顔、本音を垣間見ることができる場所だった。

しかしインターネットが名実ともに「公の場」になり、SNSが社会に浸透するようになると、インターネットの空気は様変わりした。それまでとは打って変わって、キラキラした眩しい世界になったのだ。

Facebookやインスタグラムをひらけば、皆が皆幸せそうで、楽しそうで、人生が順風満帆に見える。米国ではここ最近10代の自殺が増えており、その一因にSNSが挙げられているが、自分が10代の頃にSNSがあったらだいぶメンタルがやられていたのではないかと思う。そうでなくとも生きるのが辛かった。

しかし、自分の場合は大人になるにつれ、その苦しみがどんどんなくなっていった。おそらくそれは、物事の裏側が見えるようになったからだと思う。明るく楽しげにしている人が、実は人にはわからない病気を抱えていたり、問題のある家族を抱えていたり、人間関係に苦しんでいたりする。そういったことわかると、「なーんだ」と思う。自分だけじゃなかったのか、と。

端的に言えば、自分が文章で失敗談や恥ずかしい話を書くのは、誰かに「なーんだ」と思ってほしいからなのだと思う。みんなそんなに大して変わらないのだから気楽に生きようよ、と。そして、自分も誰かの文章を読んで同じことを感じたい。もっと気楽に生きていきたい。

そもそも人は皆完璧じゃない。どんなに完璧に見える人にも欠点も失敗もある。だけど、ネットの世界ではいつしか誰もが「完璧」を求められるようになった。間違いは直ちに正され、場合によっては謝罪に追い込まれ、一般人でも芸能人並みに容姿の欠点を指摘される。

そんな殺伐とした世界を見ているのがしんどくなって、しばらくインターネットから距離を置いていたこともあったけれども、時折思い出したように戻ってくるのは「あのときのあの文章に救われました」「えとみほさんのおかげで、いまこんなことをしています」という人に出会うからだ。

それらの文章は、決して多くの人に読まれたわけではないし、下手したら自分でも書いたことを忘れているようなものもある。でも、不思議なものでそういった「一般ウケの悪い文章」に限って、特定の誰かに猛烈に刺さったりする。自分が何気なく書いた言葉が誰かに届いて、少しだけ社会を良い方向に変えられたのだ。

これだから書くことはやめられない。そして、私も誰かに書くことをやめてほしくない。他人にしてほしいことを自分がやらないのはフェアじゃないから、これからも私は「ありのまま」を晒し続けるつもりだ。

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