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大人になった今、もう会うことができない友達

電線に止まる鳥は五線譜の音符のよう

通学路の帰り 白線の上を綱渡り

駐輪場の縁石の下にはサメが泳ぎ

坂道を下った先の段差から思い切りジャンプ


赤いランドセルを背負っていたあの頃、私の周りは冒険に溢れ、見えない友達がたくさんいた。

授業中窓の外を見つめると、ベランダの段差に小さな生き物たちがいた。先生が書き込む黒板の上、教壇の隙間、クラスメイトの肩。

〝みえていた〟というよりかは〝つくっていた〟

その証拠に、私の授業ノートには小さな友達と、あの頃好きだったアイドルや漫画のキャラクターが無造作に残っている。当たり前だが、習ったことはほとんど覚えていないに等しい。

あの時の私には、もっと授業には集中しとけよ、と言いたい。

今はもう〝みえない〟が、あの時出会った友達の名前は今でも覚えている。



校庭で行われる全校集会

体操座りで見つける数少ない透明の小さな宝石

砂場で見つけた巣穴から列をなす蟻の群れには、犬の餌を小さくしてあげる。

飛行機雲を誰が一番先に見つけたかで競い、綺麗な水溜まりをざぶんと踏み締め、靴が濡れるか濡れないかのギリギリで飛び出す。

父が運転をする車の窓。窓の外で忙しなく流れてゆくガードレールを、私の指は力強く走り、切れ目になると華麗にジャンプする。



そんな些細なことが楽しくて

私は、私たちは笑った。



大人になると、趣味にもお金がかかるので、友人と話していても、気怠い身体を満足させるために甘いケーキやチョコレートを欲しがる。何かを忘れたい時は、お酒を飲もうと夜の街を歩く。お金を出して何かを買い、目に見えるもので満足をする。それはそれで楽しいのだが、失うものも目に見えるのだ。

歳を重ねると欲張りになるのか、あの時遊んでいた公園や、公民館。みんなで遊んだあの運動場を、何もなくてつまらないと吐き捨てる人が多い。

きっと、思い出の中で遊んだ誰かが、もう2度と戻ってくることはないと分かっているから退屈なんだ。

瞳の奥で生きていた映像の記憶は、いつだってスマートフォンから思い出せるし、鼻歌で曖昧に歌い作り出したあの曲も、家まで戻りCDを聴き直さなくても動画サイトでいつだって聴ける。友人なんか作らなくたって、画面の向こうで自分を見てくれる、貼りついた吹き出しの仲間がいる。


静まり返る校舎の中、顔の半分を覆うほどのマスクをしっかりとつけ、ずしりと肩にのしかかる教科書を背負い、黙々と学校まで運ぶあの子達を、私は知らない。

今を生きる学生達は、情報が入り乱れるこの今を、画面を通し、懸命に楽しんでいる。



雲を見つめ クジラだと叫んだあの子は

声も 背丈も伸び 変わり

大人になった私たちは 

真っ暗な画面ばかりを見つめる

あの時 響き渡っていた 私たちの笑い声は

今もまだ きっと 校舎の中に残っている



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昔見えていた友人というのは、大好きな松本大洋さんの作品の〝ゴーゴーモンスター〟という作品の影響を受けています。

今はもう立ち入り禁止の場所が多いけれど、放課後屋上にこっそりと上がり、特別な空間を楽しんでいた頃を思い出します。

情報社会って便利だけれど、新しいものを自分で作り出したり、見つけ出すことの機会は少し減ってしまうかもしれない。それでも、やっぱり便利な世の中になったのだから、新しい楽しみ方を見つけていきたい。大人になると今を楽しむ人たちのピカピカした姿を、批判する人もいるけれど、疎外感は他人に投げつけずに、自分が楽しめる術に変える方がきっといいと思います。

でも、人それぞれなので、意地悪な心や人に出逢ったら、紙に書き出して捨てちゃいましょう!!笑

逃げ道も、寄り道も、思った以上にたくさんあります。

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