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好きなこと、進みたい道がない人なんていない説

アラサー既婚適応障害女、絶賛転職活動中でございます(笑)

ここ1週間で3社ほど面接を受けました。ちょっと詰め込み過ぎたかな、と思ったけれど、案外乗り切ることができました。気張らず、自分を立派にみせようとせず、自然体で面接に臨めているからかもしれません。

そして早速初めてお祈り(不合格)連絡を受けました。大学生の就活の時以来なので、6年前に経験していたこの感じ、なんだか懐かしかったです。まぁ少し堪えましたが、それでもそこまでダメージをくらっておりません。面接では、手ごたえがあったというか、きっと通過だろうなという感触があったので、なんだかそう感じていた自分が恥ずかしいですが、まぁあまり気にせず受け進みます。

いろいろな意見や見解もある中ですが、私は病気のことを先方にしっかりと伝える方式でやっております。まだまだこれから実感をするのだと思うのですが、病気であること、職を離れていたことがどうしても選考ではネックになる予感もしております...

そしてそして、選考を進める中で、「私は何がやりたいのだろう」と立ち返って、自分と向き合うという時間がさらに増えつつあります。

そんな今、気がついたこと...

それは、「やりたいことや好きが特にない、分からない」という人が多くいるけれども、正確にいうとその表現は間違っていて、「やりたいことや好きが埋もれていて自分自身でなかなか気が付けない」というのが正しい表現なのではないかということです。

先日、専業主婦である友人とこんな話になりました。
「私、楽しいと思えることがないんだよね。自分の時間があるときに何をすればよいのかよく分からなくて。」と。

私もなんとなく、彼女のその気持ちが分かります。自分のテンションが上がること、たとえば、好きなアイドルがいる人はアイドルのライブ映像を観てはしゃいだり、読書が好きな人は物語に没頭していたり、ただひたすら幸せに昼寝をする人もいたり、私も自分が心の底から楽しいと思えることって何なのかなとか思考していました。

でも、よくよく友人の話を聞いてみると、彼女は漫画を読むのが好きだとか、ゲームをするのが好きだとか、自分の好きなことはあったのですよね。じゃぁ、なんで好きを持っているのに分からなくなってしまっているかというと、原因は彼女の "罪悪感" がありました。

彼女は専業主婦で、子供は嫌々ながらも平日幼稚園に行っていて、旦那さんは忙しいのに仕事を頑張っていて、そんな時に自分だけ楽しい思いをすることが彼女にとっては家族に対して申し訳ないとか、自分も働いてお金を稼いで家計の足しにするべきなのではないかとか、そういう罪悪感があるせいで、せっかくの好きなことが埋もれてしまっていたのですよね。

そのことに気が付いた私は結構な衝撃を受けました。

私の場合は、キーワードは "生産性"。何かのためになる、たとえば知識が増える読書だったり、英語の勉強になる洋画観賞だったり、そういったことはやってもいいけれども、なんの生産性もないと自分が思っている、たとえばただゲームをするとか、ただお風呂に入ってぼーっとするとか、そういったことが好きだとしても、心から楽しめなくなってしまっていることに気が付きました。

転職だって同じです。
ただただ「やってみたい」、「面白そう」、その思いだけで貫けばいいものの、企業の大きさとか、福利厚生面とか、安定性とか、将来につながる可能性が高いかとか、そういう条件的な(今の私にとっては本当にどうでもよいであろう)ものがネックになって、自分の「やってみたい」「面白そう」の気持ちに正直になれない時があることに気付きました。

小さな子供が砂場遊びに熱中するように、時間を忘れておままごとをしているように、大人が何の条件なしに何かを楽しむことが大人になったがゆえ難しくなっているけれども、でも本当はそんな没頭する子供たちのようにただなれば良いのです。

働いてお金を稼ぐって、その代わりに努力や我慢がたくさん必要になると考えてしまうけれど、でも必ずしもそうでもないのかもしれません。

人生は一度きり。
自分の好きなことをして仕事にしてなんぼです。
楽しんでなんぼです。

そう思いながら就活頑張ります!


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