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カレーを栽培する

長い海外生活を経て、ニッポンのカレーと本場のカレーは別物であると身体で知った。毎日3食がカレーなのだから、カレーとさえ呼ばない。変わり映えのない食事を、スパイスのチカラで掻き込む。そうしなければ労働に耐えられない。彼の地では老人がいまだ黄濁していない眼をかっと見開き、マシンガンのように喋りまくる。マリファナをやっているからではない。カレーをやっているからである。

ニッポンに帰って来て、本場のカレー屋になれないだろうかと考えた。あんなカレーは、ニッポンのどこでも食べたことはない。誰も店を出していない。そう思ったが、よく聞くと大阪でカレー文化が爆発しており、スパイスカレーと呼ばれるようになり、私が標榜するカレーと近かった。

さすがは大阪。今では全国にそのカルチャーは飛び火して独自の進化を続けている。カレー屋になる人は正規の料理人ではなく、バックパッカー、ヒッピーの末裔、アーティスト、異国人など、アウトサイダーが多かった。若者のカウンターカルチャーであり、その点でラーメン屋の歴史とはそもそも出発点が異なる。

しかし、業界としてはラーメンと同じ道を歩んでいるのかもしれない。心意気ではじめたものの、雨後のたけのこのように店が乱立し、気がつけばレッドオーシャン、いつの間にか競争原理に飲み込まれる。ただでさえ原価率が高いのに、原料は相次ぐ値上げで経営を圧迫し疲弊する。自分はアウトサイダーではなかったのか。

私が暮らしたのは田舎ばかりで、スパイスカレーの洗礼を受けていない土地だった。私が調理して振舞うと、みんな目を丸くして驚いた。酒をぶら下げて家に来て、あのカレーを食わせろと言う。カレーの有する中毒性を、私は重々承知していた。無口な中学1年生の女の子にカレーを供すると、「これ、美味しいね」と思わずつぶやく。その思い出が今日もまた私にカレーをつくらせる。

私はサラリーマンとして多くを学んだが、多くを失いもした。人生が10回あるならば、そのうちの1回はそんな選択でもいいだろう。でも、人生が1回きりならば、そんな選択でいいのだろうか。

カレー屋はあぶない奴らである。同化したふりをしながら拒否している。ひとりひとりがバンクシーだ。仕事なんかもとから嫌いだ。仕える事と書くからだ。誰に何に仕えろというのか。そんな彼らに私はこころから共感を覚える。カレーは彼らの曼陀羅なのだ。外食大手ブラック企業にこれができるか?「これ」が何であるかさえわからないだろう。

私は夢想する。ド田舎で土地を借りて、カレー屋の周りで原材料を栽培する。コメ、タマネギ、トマトはできる。ニンニク、ショウガもできる。鶏も飼育できる。スパイスは難しい。ニッポンのさらなる温暖化を待たなければならない。それでもできるものはたくさんある。和のスパイスやハーブ、パクチーなんかは露地でできる。

農家がカレー屋を営むのではなく、カレー屋が農業をする。カレーの原材料を選んで育てる。お客さんにはトッピングのパクチーを自分で摘んでプレートに載せてもらう。育てるのに忙しい時は店を閉めて札を下げる。「いま、畑にいます」。WWOOF(ウーフ)で外国人が入れかわり立ちかわり滞在し、畑や店を手伝う代わりに新しい何かを持ち込む。ゲストハウスみたいになってくる。私の子どもは彼らや彼女らが育てる。

そう、カレーを栽培するのだ。

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