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壊れないために壊れる

『ゾマーさんのこと』(パトリック・ジュースキント著、ジャン=ジャック・サンペ絵、池内紀訳、文芸春秋)という本がある。少年が暮らす湖畔ではゾマーさんがいつも歩いている。毎日何十キロも歩いている。ひょうが大量に降っても歩いている。なぜ歩いているのかは誰にもわからない。

少年がモミの木にのぼっていたとき、ゾマーさんが木の下に現れる。頭上の少年には気づいていない。ゾマーさんは立ちどまって苦しげにあえぎ、大きなため息をつく。

いや、それをため息ということはできまい。ため息には、どこかしら安堵が混じっているものだが、ゾマーさんのため息には、そんな気配はみじんもなかった。むしろ悲痛なうめき、深い、ふり絞るような臓腑の声であって、そこには絶望と、かなわぬ慰めへの憧れといったものがまじり合っていた。

そしてまた、ゾマーさんは「とぶような勢いで」歩きはじめる。

味わい深い本である。著者はドイツ人で、映画化されたベストセラー『香水』も幻想に満ち満ちている。ただ、『ゾマーさんのこと』は著者が子どもの頃の実体験ではないだろうか。なぜなら、私もそっくりな体験をしているからである。

私は山深い地方に暮らしていて、ある晴れた日、丘陵の上にある果樹園を歩いていた。板を張り付けただけの小さな物置のような小屋があり、何の気なしに覗いてみると、足元におばあさんがうずくまっていて、驚いて飛びのいた。おばあさんはこの辺りの草取りをしている人で、日陰を求めて休憩していたのだった。私は少しおばあさんとおしゃべりをした。

「うちの息子は、もうだめじゃ」。おばあさんの息子とは、歳は50代前半ぐらいで、毎日この起伏に富んだ土地を歩きまわっている人だった。まっすぐ前を向いて、すれ違う人とは言葉を交わさない。大きな歩幅でとても速く歩く。胸板が厚く、ほれぼれするほどたくましい。おばあさんと同居しているが、朝から晩までとにかく歩いている。

彼もまた、ゾマーさんと同じで歩き続けるしかない人だった。歩いていても苦しいが、止まるともっと苦しい。ドイツにも日本にも、世界中にただただ歩き続けている人がいる。

NHKに『no art, no life』というたった5分間の番組がある。こころに障害を持つ人たちによる創作現場を映し出すのだが、年末年始に過去の映像を一気に流す特集番組があり、私は何時間にもわたってかじりついて観た。彼らはただひたすらに描き、つくり、施設から自宅に帰っても創作は止まらない。誰かに見せるために、評価されるためにつくっているのではない。つくらずにはいられない。その原動力と出力は歩き続けるゾマーさんと共通している。そしてその作品たちは、私を深く深く魅了するのだった。

彼らも苦しいのだろうか。だからつくるのだろうか。彼らは言語化しない。だから歩き、描き、つくる。なんて潔いのだろう。

苦しみを自分に向けている。傷つけるのであれば、誰かではなく自分を傷つける。リストカットのように。なんて優しいのだろう。

彼らは、壊れないために壊れている。きっと私もそうなのだ。潔く優しく、壊れよう。


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