自己犠牲という言葉では片付けられない
およそ20年前、イスラエルに建設された分離壁が、ユダヤ人とパレスチナ人の紛争を防ぐためにヨルダン川西岸地区に建設された。
そのきっかけとなった出来事がある。オスマン帝国期にユダヤ人とアラブ人はお互いの結婚式をともに祝ったり、親戚のように共存していた。
しかし、イギリス政府がそれぞれの民族に対して、領土を与えるという名目で紛争を焚き付け、資源をかっさらうということをしてしまったため、民族は分断されてしまった。
その後、ナチスの迫害を受けて散り散りになったユダヤ人たちは、パレスチナの地に集いますが、一度分断された民族同士のため紛争が起こります。
そして、国連の決議でユダヤ人の国家としてイスラエルが建国されますが、アラブ人はそれを認めず武力攻撃を開始し、報復の連鎖が続くことになります。
その分断壁に、アートを描いたのがバンクシーです。警備兵に銃殺されてもおかしくない地域で、メッセージを伝えるために。
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なぜ戦争が無くならないかという議論については、考えてもそう簡単に答えなど出せませんが、人間の感情と所属している場所が起因となってくるのではと、以下参考になった記事になります。
世の中の事象は陰と陽で成り立っており、スキに対する執着があればあるほど、関係性が強ければ強いほど、それを否定されたり、奪われたときは許せないという感情が湧いてきます。
しかし、スキという感情は自然に発生するものです。例えば、人に親切にされた時や、自分の価値観に合ったものに出会った時など、それにもっと近づきたくなると思います。
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そのため、ヨーロッパの哲学者のカントも、戦争状態があるのが通常であり、それを防ぐためには人間の理性に基づいた法律やシステムを構築する必要があると説いています。
人間の道徳心を利用して、これは聖戦であると、あらゆることを正当化してしまい、一部の権益者が舵をきって悪い方向に進んでしまったら、後戻りはできなくなってしまうのではないでしょうか。
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SNSの普及で世界中の人と、スキを共有することができるようになり、繋がりやすくなりました。
スポーツやアート、音楽など、コンテンツも個人が発信できるようになってきたので、利害関係のあるコミュニティーも遠隔で作れてしまうかもしれません。
そういった方向性になってきたものの、↓ フリーダムさんもおっしゃってたのですが、人間は物質的な生き物なので、リアルなコミュニケーションは直感的に必要ではないかと感じています。
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日本という国に育てられ、アイデンティティーになってますが、国やメディアに悪い方に動かされる可能性もあるので、自分の道徳心に従った行動を追求していきたい。
スキのために闘うのと同様に、自分を犠牲にしてでも道徳心のために闘う覚悟を持てるかどうか。。
(カントによると、本能的部分ではなく、理性的な部分が自由=道徳的ということで、欲だけで生きてる人間は自由ではないということらしいです。)
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