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短編小説『涙のグリース・ライトニング』

    
   涙のグリース・ライトニング


  絶望と悲しみの先で、男は踊り出した


  ※本作は2018年7月17日に起こった
    事件を元にした実話である。




カレンダーを1枚めくり7月を迎えた。
あと17日。
大学が夏休みに入ってから僕のカレンダーの予定はバイト、バイト、バイト……週末は人生で初めてできた彼女とのデート。
そしてまたバイト、バイト、バイトの日々。

7月17日は僕の誕生日、その翌日には彼女と付き合ってからちょうど“1ヶ月記念日”を迎える予定だ。

1ヶ月が記念?
今まで20年間生きてきた中で彼女が一度もできたことのなかった僕にとって“1ヶ月記念日”というものがどれだけ羨ましく、悲しく、果てしなく遠く、叶わぬ響きだったか。
僕は今まで1日だって、1時間だって、1分、1秒だって経験してこれなかった。
1ヶ月なんて僕の世界では前人未到なんだ!


話を遡ること高校の時、僕は弱小野球部に所属していた。
メンバーは総勢9人。
弱小なのに、僕以外の8人の男子部員には彼女がいた。
弱小のくせに……でも、その8人は確かに勝者。
僕は弱小かつ敗北者。
そんなことでついつい自信を無くしてしまった僕には希望も目指す先も何もなかった。
ただ漠然と無駄に捨てていくだけの日々。
地元の花火大会、クリスマス、卒業式……自信のないせいで貴重な青春が無駄に無駄になっていくのが勿体なくて悔しい。

その後、僕の高校は進学校だったのでとりあえず流されて地元熊本の大学へ。
大学に入ってからも何を目指していいかがわからなかった。
なんの予定も、やる気も、やりたいことも新しい出会いも見つけられていない。
カレンダーはずっと空白。もはや不要。
財布も不要になってきた。使う相手も予定もない。
でも、あと2年後の就活までに社会経験は必要だという思いから、とりあえず家の近所のレンタルビデオ店でバイトを始めた。


そこで、僕は“映画”に出会った。


僕は映画の魅力に取り憑かれたように、毎日DVDを借りて見るようになった。
レンタルビデオ店の棚の隅から隅まで新しいのから古いものまで、オールジャンル色んな映画を見まくり、年間300本は見ていたと思う。
無駄に捨てていた時間も、映画を見ている時間は決して無駄にはなっていない。
スピルバーグ、ルーカス、コッポラ、イーストウッド、スコセッシ、黒澤、キュアロン、レフン、キューブリック、フェリーニ、トリュフォー、チャップリン ! 充実した最高の日々。

初めて熱中できるもの、永遠に嫌いになることのない大好きなもの、北極星のようなものと出会えた気がする。


中でも往年のミュージカル映画は特に好きだった。

1年後、そんな映画オタクとなっていた僕に、遂に奇跡が起きる。
僕と映画の趣味の合う女の子と運命的な出会いをし、見事付き合うことが出来た。
初めての、初めての彼女! 
1秒、1分、1時間と今までなし得てこなかった記録を更新し続けていく。快挙!
現実感のないフワフワとした夢のようで、まるで映画の中のような、そんな至福の気分だった。



7月17日
今日は僕の21歳の誕生日だ。
夜8時に気合を入れてイタリアンレストランでディナーを予約している。
夜7時30分には彼女を家に迎えに行く予定だ。

今日は完璧すぎる最高の日になるのは確定している。
僕は当然期待していた……彼女からの初の誕生日プレゼントも……あと、初の〇〇〇も。
そして、それらを達成した暁には、明日念願の1ヶ月記念日を迎えるのだ。
もう興奮が止まらない!!!



夜7時20分
僕は彼女を迎えに、おばあちゃんから当日誕生祝いで有り難く頂いた3万円を手に、父から拝借した車に乗って家を飛び出た。

(やばいやばい、急がないと遅れる……)
スイスイと空いた田舎の県道で、車をビュンビュン軽やかに走らせる。
(日付が変わる頃には念願の1ヶ月記念日を迎え、そして晴れて卒業できているだろうな〜)
そんな浮ついた心がやはり勝ってしまう。


その結果、乗っている車のガソリンメーターがそこをつきそうだということに気づいてもいない。
「やべっ、こんな時にガソリンないじゃん!」
田舎町で、この時間はセルフのガソリンスタンドしか開いていない。
僕の実家はお金持ちだったから、父は高級車に乗っているし、ガソリンスタンドでも父がセルフで入れる姿を一度も目にしたことがない。
僕もその影響から今までセルフで入れる経験をしてこなかったのだ。

でもセルフへ行くしか道はない。
車を停めると急いでガソリンを入れる。
はじめてのことで給油の操作に時間がかかるが、とにかく、急げ! 急げ!!

ガソリンを満タンに給油し終えた時、気づいた。
……気づくのが遅かった。
赤字で「灯油」と書いてある。
何かの夢かと思ったが、違った。
僕は父の高級車に灯油を満タン入れてしまった……。
なんてバカだ……。




夜8時30分
僕は、油汚れた薄暗い車工場にいた。
本当なら今頃洒落たイタリアンレストランのはずなのに……。
車のお尻を45度ほど持ち上げ、車工場の工場長が車体の下に潜り込んでガソリンタンクを取り外そうと他2人の従業員と作業する。

父に電話で、大事な愛車に灯油を満タンに入れてしまったことを話すと激怒された。
そして1時間以上も待たせてしまっている彼女にも電話する……やはり激怒。
事情を話すにもあまりにもバカで情けない話。



夜10時30分
未だ作業が続く。
車の下から工場長が訊く。
「ガソリンはいつもここじゃなくて別のところで?」
「はい……」
「あぁ、じゃあはじめてだったのね……」
「…………」

予想だにしないあまりの精神的ダメージで、声がもう小さくしか出ない……もう何の気力もない。

「さよなら………………………………プツゥ……プー、プー、プーゥ…………」

夜10時40分25秒
病室で死亡時刻を測られた遺体のように冷たく固まる僕。もう目も開けれない。
僕は電話で彼女に振られた……。

完璧で最高で至福の誕生日のはずだったのに……
なぜ、僕は今絶望の渦中にいる? どうして?


工場長はそんなことも知らず、お構いなく話を進める。
「一応乾かさなんのもあるけん、2〜3日かかるかもしれんですねぇ」
「はい…………」
「一応少なめに、少なめに見積って、うちは下からタンクのコックを抜くのが1.5万円〜2万円くらい……私が1回軽自動車でタンクに入った水を抜いた時には4〜5万円くらいかかったですね……」
彼女に振られてから工場長の話が一切耳に入ってこなかったが、修理代だけははっきりと聞こえた。
「………シィ……4、5万」

追加の精神的ダメージはあまりにも大きい。
気が物凄く、遠く、遠く、遠く…………




結果、請求金額は5万円だった。
おばあちゃんから誕生祝いで頂いた大切な3万円もその日のうちに無駄に失い、自腹で2万円も失い、車も、彼女も、1ヶ月記念日、初体験も……。
人生最悪の誕生日、このたった1日だけで何もかも全て失ってしまった……。

激怒する父は迎えには来ない。
ここから家まで歩いて帰らないといけない。
歩きだと1時間以上はかかりそうだ。
両足ももう動ける気がしないし、目もぼやけて指針も見えない。
気が果てしなく、地の底まで深く、深く、深く…………

希望は絶たれ、残ったのは絶望だけ。
絶望が胸の中を蝕み続け、もうすでに頭の中はぐわんぐわんするし、グチャグチャ。

もうダメだ……。


でも、全てを失っても、
どん底の絶望の中でも、
最後に僕の中に残っていたもの、
それは“映画”だった。
それが“自分”だった。

僕は、頬に滴る涙を振り払うように、もがくように前へと走り出していた。

さっきまで工場長が車体の下に潜るためにの使っていた車輪のついた作業用の寝板を持ち出す。

工場長や従業員たちは呆然と立ち尽くしている。

僕は故障してしまった父の車の後ろで、寝板に仰向けになって寝そべった。

夜中11時のぼんやりとした薄汚い工場の白い灯り。

この先はわからないが、もしかしたら繋がってるかもしれない……。

もう逃げ込むしか方法はなかった。

僕は曲げた膝を伸ばし、踵で思いっきり地面を水平方向に押し放った。
勢いよく車体の下を進む。
そのまま真っ直ぐ真っ直ぐ、現実を、時空を超えて進み続ける。

行け!
行け!
行け!

「ゴー! グリース・ライトニング!」

車体の下を抜けた。
飛び起きると、そこは昔どこか映画で見たような現実感のないまるで夢のような煌びやか世界。


辛い辛い現実、絶望と悲しみを抜け、
そこで男は踊ったのだった。




※辛い辛い現実、絶望と悲しみを抜け、
皆さんも一緒に映画の世界へ逃避しよう。
ーーー 映画『グリース』より ーーーーーー
      ↓  ↓  ↓  ↓






一曲を終えるようにスッと現実に戻った。

さぁ、これからどうするか。
どうしたらいいのか。
私たちは、結局いつかは現実を見つめ、立ち向かい、乗り越えていくためにその“手段”を見つけていかなければならない。

その“手段”は何だっていい。
僕の場合、それは“映画”であり、“物語の執筆”であった。

                 (終)

      著:江川 知弘



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