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レディ・プレイヤー1

はい、スピルバーグです。つい、この間感想書いた「ペンタゴン・ペーパーズ」は新聞社を舞台にした社会派ドラマでしたが、それと同時期に作ってた、仮想現実の中にしか希望を見い出せなくなってしまった近未来の世界を描いて、SF監督としての現役っぷりを見せつけた超エンターテイメント作品「レディ・プレイヤー1」の感想です。

個人的には、12歳で初めて「E.T.」を見て以来SFと言えばスピルバーグっていう世代なんですが、数あるSFの中でもスピルバーグ作品が素晴らしいのって、監督が常に自分に忠実に映画を作ってるからだと思うんですね。で、(その作り方はずっと変わってないと思うんですけど、)ここ何年か、特にこの前の「BFG」なんかは個人的にはいまいちで。ちょっと、若い頃の焼き直しになって来てるなと感じてたんです。(社会派映画の「ブリッジ・オブ・スパイ」が良かっただけに。)なので、最早、この手のいわゆるスピルバーグ的エンタメ映画は難しいのかなと思っていたんです。でも、そしたらですね、これと同時期に撮影された「ペンタゴン・ペーパーズ」にスピルバーグ的エンタメ精神と、とにかく(理屈じゃなく)面白い映画を撮ろうっていう初期衝動の様なものを感じて、まるで監督の若い頃の作品を観てるみたいだなと。だから、ある種の期待をしてこの映画を観たんですが、監督の精神性がそういう状態になったのって、「レディ・プレイヤー1」を撮ってたからなんじゃないかと思ったんですよね。じつはこれ、自分に忠実に映画を作ってきた(そして、それが通用しなくなって来てるかもって感じていた)スピルバーグそのものを肯定する様な、初期衝動的であると同時に遺言状の様にも見えてくる、スピルバーグがSFを撮るってことに改めて開眼した作品なんじゃないかと思うんです。

つまり、単純に面白いんですよね。(「ペンタゴン・ペーパーズ」にしてもですが、スピルバーグ映画の凄さってこれなんですよね。ただ面白い。それだけがアイデンティティーであるかの様に映画を撮っていて。だから、まぁ、そこが天才なんだろうと思いますけど。)面白いシチュエーションを見つけて、その面白いと感じたことをそのまま映画にしてると言うか、理屈なんかより面白さというのがまず先に来て。多少辻褄なんか合わなくても、倫理的なところがふわふわしても自分の面白いに忠実であれって感じがするんです。(例えば「ジュラシック・パーク」とか「プライベート・ライアン」とか、何か新しいフェーズに入る時のスピルバーグってこのパターン多いですよね。バランスは良くないけど何かに突出した映画を撮るというか。)ここまでキャリアがあって巨匠の域に達してる人が、また、そこに立ち返ってるっていうのが凄く面白い。(ていうか、よく考えたら、スピルバーグって常にこの繰り返しですね。ダメになったり開眼したり。それでも撮り続けてるっていうのが圧倒的なんですが。)なんか、カワイイというか。(このカワイさっていうのもかつてのスピルバーグ映画特有のものでした。)だって、単純に、つまらない生活の中で、自分が望んだキャラクターになれたり、今の自分とは全く違う人生を送れたらいいなと思うじゃないですか。その"こうだったらいいな"をとにかく徹底的に観せてくれる。で、思ったんですけど、スピルバーグって人はもともとこういう面白いに忠実な人だったですよね。かつてのスピルバーグ映画って、こういうのを本気で面白がっていいんだってことを教えてくれてたというか、信じられるだけの世界を作ってくれてたというか。で、それって、正にここに出て来る仮想現実ゲームの"OASIS"と同じで。つまり、かつてのスピルバーグ映画がやってきたことを、それを体験した僕ら観客やスピルバーグ本人("OASIS"開発者のハリデーって、どうしたってスピルバーグを想起させますよね。)までを含めた俯瞰的視点で描いてるのが、この「レディ・プレイヤー1」なんだと思うんです。ただ、ほんとはそうやってファンタジーとして描いてたものの裏側を見せたり、そこに現実を含む視点を入れちゃうと、シリアスになったり、暴露的になったりしちゃうと思うんですけど、この映画では、まだ、きちんと夢が夢のまま描かれていてですね。僕らが子供の頃に見せてもらった夢を現実で否定したりはしてないんです。(つまり、超エンターテイメントのまま現実も見せてくれるという結構な離れ業をやってると思うんですよね。折り合いをつけるくらいの大人感はありますが。)僕はここにまずグッと来たんです。これってもの凄くスピルバーグ的だなって思って。ディストピアな未来を描きながら、何故かそこはかとない希望を感じるのは、この夢と現実を照らし合わせた上で、でも夢が優るっていうスピルバーグ的エンタメ精神のせいだと思うんですね。

でですね、そんなの問題先送りの夢見がちな映画ってことなんじゃないの?って話になると思うんですけど、いや、スピルバーグなめんなというか、今までそんな映画一本でも撮ってきましたかということなんです。「E.T.」にしたって「未知との遭遇」にしたってちゃんと現実が描かれていて、そこに対峙する主人公として、常にスピルバーグ本人の苦悩(というか負の感情)が反映されていたじゃないですか。(この辺の作品に比べたら、今回の「レディ・プレイヤー1」の方があからさまに描かれてるくらいですよね。現実が。ちなみに「インディー・ジョーンズ」シリーズはルーカスと一緒に作ってるので現実よりも活劇度数の方が高いです。ルーカスはそういう人です。)だから、常に現実ありきで。そういう現実が現実として幅を利かせてる現代社会だからこその、あえて夢を見せるっていう。そういう衝動なんじゃないかなと思うんです。で、それがなぜ遺言的なのかというと、スピルバーグという人が今までどうやって夢を見続けて来たのか、そして、それが間違ってなかったっていうのを(でも、それらはすでに過去のものっていうのも含めて)解明していく様な映画になってるからだと思うんです。

なので、監督のSF映画への新たなフェーズの始まりであり、かつての自分の作品へのオマージュ(鎮魂歌)の様でもあると思うんですよ。で、それを観て、天才でも巨匠でもない僕らがなぜ共感するのかというと、スピルバーグが(ハリデーっていう登場人物を通して、)自分も"ガンダム"や"ゴジラ"や"アキラ"に心奪われた普通の子供で、それを今だに引きずったまま夢を見ているって言っているからだと思うんです。(映画的ディストピアが正に今の社会そのままで、そこであえて夢とか希望とか友情とかを語る力強さと言いますか。現実がここまで来てしまったからこその痛快さであり、仮想現実が正に仮想でもあり現実でもあって、どっちが現実でもギリ信じられる"今"っていう時代だからこその熱さなんじゃないですかね。エモいんですよね、ここ2作のスピルバーグって。)

ちなみに、僕が一番アガったのは、あるホラー映画の世界に入ってしまう場面でした。いや、マジで、映画観てて「ああ、その部屋行っちゃダメだ〜」みたいな気分にもの凄く久しぶりになりました。(し、やっぱり、スピルバーグとキューブリックの関係を知ってるとアガりますよね。)映画の世界観的には入ってない方がスッキリするんですよね。本当は。でも、これがないとスピルバーグ的仮想現実は完成しないってことなんじゃないかと思うんです。"ガンダム"や"ゴジラ"にそれ程心酔して来なかった自分のアイデンティティーはここにあったんだなと再認識しました。(基本、ディズニー・ワールド派の僕ですが、もしも、このホラー映画の中に入れるアトラクションが作られるなら、確実にUSJにも行くことになると思います。)とにかく、映画が監督のもので、面白さに忠実であるならば、いくらアトラクション的になろうが、ゲームと映画の境界が曖昧になろうが、版権がどうだろうが関係ないっていう(のを70年代後半から80年代のハリウッドを牽引して来た監督自らが言ってるっていう)割とアナーキーなところも好きな映画です。

http://wwws.warnerbros.co.jp/readyplayerone/sp/

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