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きっと、それぞれの上京物語

東海道新幹線のメロディが変わるらしいというニュースを見た。僕自身、大学進学を機に新幹線で上京した身なので、そういったニュースだったりSNSなどで語られるそれぞれのちょっとした思い出だったり物語を見て、ふわっと記憶が蘇った。

ローカル線の単線が走る地元の最寄駅ではなく、少し離れた地域で大きな街の私鉄ターミナル駅まで車で送ってもらって、そこから新幹線の駅へ向かう。名古屋駅は近鉄やJR、名鉄など各種電車が乗り入れているが、大阪や京都につながる近鉄名古屋駅の構内では乗客たちも関西アクセントが主流なのに対し、JRの、特に新幹線の名古屋駅に行くと、もうそこは標準語が支配的なイメージがあり、同じ名古屋駅でもつながる場所によって境界があるな、という気分になる。

目的地は誰も知り合いのいない東京。新幹線に乗り込んで、窓側の座席に座ってぐんぐん東へ進む車窓を見ているとどんどん地元の街から離れていく。一方で、新幹線は偉大で2時間もあれば東京に着くのだ。生まれてからずっと地元の小さな街で育っていた身からすると、「東京」はとても遠いところにあるような気がしていたけど、そこは(当たり前だけど)僕の地元からも地続きの場所で、そして案外近いんだな、と少し拍子抜けしたような気持ちがあった気がする。あの「東京」に行く、という何か覚悟めいた思いとは裏腹にあっという間に定刻で車体を東京の街に滑り込ませていく。車内に何百人という人がいて、それぞれいろんな理由で新幹線に向かっているのだろう。そりゃ1人の乗客が上京しようがしまいが知ったこっちゃないのだ。

とはいえこちらはこちらで不安と期待でいっぱいである。ましてや若い。くるりの「東京」だったり上京ソングを聴いて気持ちが高まりすこし涙ぐむような静岡あたり。別に何か葛藤があって上京したわけでもないし、テレビや漫画であるような「成功するまであの街には帰らない」みたいな話でもないただの進学による上京、いつでも帰ることはできる、だけどたった一度きりの「上京」というシーン。気分を高めるためのBGMは自然な演出だろう、涙だってきっと必要だったはずだ。

たしか富士山だって見えたはずだけど、曖昧な記憶と時間がうまい具合に演出している可能性はある。いずれにせよ、大した大志があるわけではないけど、僕はこの日「上京」した。同じ車両にも「上京」仲間がいたかもしれないし、数分おきに発車する新幹線だからきっと3月の同じ日に何十人、何百人も同士がいただろう。そしてそれは翌年も翌翌年も同じように。そのそれぞれに上京物語がきっとあるのだろうな、と思う。

富士山を越えて、熱海あたりで海が見えるとあっという間に新横浜、そして都内に入っていく。今ではお馴染みの、だけどこの時はきっと人生で2回目だったはずのAmbitious Japan!のメロディ。東京駅に着いて新幹線のドアが開くときの不安と高揚感!ここからは全て自由なんだ、と思ったけどその突然手にした大きな自由を前にどこまで踏み込んでいいのかな、と恐る恐る自分の好奇心と向き合っていった時期だったような気がする。

ずっと東京で生まれ育った人たちには、「上京」という概念とそれに付随する思い出やストーリーがないのかな、と思うと、「上京」とは、ちょっとした地方出身者の特権かもしれないな、と思った。
次はまた違うメロディがこれからの上京物語に紐づいていくのだろうな〜。

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