どこまで共感すべきなのか?

考えるより先に共感しろ


共感する能力とは、実に誇らしい能力だ。相手の苦しみや悲しみに共感できるからこそ、ぼくらは他人に手を差し伸べることができる。共感する能力がなければ、きっと他人を助ける動機から美しさは失われ、淡白で打算的なものだけが残るだろう。
ぼくが駄文を垂れ流す理由の一部も、共感してくれる人がいるからこそだ。自己満足だけでも文章は書ける。実際、そういったテキストも残している。だが、それだけでは、いずれ虚無的な限界にぶち当たることになるのは目に見えている。

まあ、ぼくが文章を書く理由はともかく。
今回のテーマは『共感』である。
初めに書いたように、共感するという行為は一般的に善的なものと考えられる傾向があるように思う。ぼく自身もべつに共感すること自体が悪だとはちっとも思っていない。

だが、徒に他者への共感を促すことが、果たしてぼくらの社会を良くする助けとなるだろうか?
人権という言葉が世界中で声高に叫ばれるこの時代、まるでぼくらはすべての他者に対して共感すべきだと頭を押さえつけられているかのように思える。

世に蔓延る、人権という宗教の中には、強迫的な教義が含まれているように思えてならない。
それが「考えるより先に共感しろ」である。
だが、ぼくら一人ひとりが成長し、ひいては社会を改善してゆくために必要なのは徒な共感ではないはずだ。思考停止の中には進展もなければ改善もない。事物と真摯に向き合い、考え続けることをしなければ、ぼくらはいつまで経っても『何か』に利用される子どもだ。即ち、社会もまた子どものままである。

罪人への免罪符


刑務所に服役する囚人たちは人権を侵害されていると主張する人たちがいる。
ぼく自身も、囚人たちを取り締まる看守が、謂れもない暴力や暴言によって囚人を苦しめているとしたら、迷わず糾弾の声を上げるだろう。
だが、人権派の意見というのは、どうやらそういうことではない場合も多いようだ。狭い牢屋に閉じ込められ、まずい飯を食わされる彼らが憐れでならないようである。

ぼくにはちょっと理解できない。罪を犯したものは罰を受ける。彼らの置かれた環境というのは、無辜の市民と囚人との生活圏を隔てる安全を考慮した面もあるが、まず何よりも罪を犯したことへの罰であるはずだ。それを無視して考えることを放棄し、人権や共感といった蕩けるような善性に耽溺するのは、なんというか自傷行為にも似た痛々しさを感じる。

もちろん、ぼくは罪を犯してしまった人を、ひたすら追い詰めたくて、こんな主張をしているのではない。むしろ真に反省し、心を入れ替えて刑期を終えたような人が、前科者として迫害され、社会から抹殺される世の中を快くは思えない。過去の凄惨な経験から罪に手を染めてしまった人、心を歪められてしまった人に憐憫の情を抱きもする。

だが前者はともかく、後者のような人を、可哀想だから、共感し同情できるからといって、それを免罪符にしてよいものだろうか?
人権が人のすべてを守り、共感が人のすべてを許すなら、どうして法律が必要だろう。秩序とは即ち人権や共感でしかあり得ないとでも言うのだろうか? もし、そうだとするのなら、それは健全な宗教ではなく、カルトと呼ぶべきものではないだろうか?


サイコパス


ところで、本筋から逸れてしまうのだが、ここでサイコパスについて話させて欲しい。
まずサイコパスについてどんなイメージを持っているだろう?

最初に明言しておくと、サイコパス=凶悪犯罪者ではない。凶悪犯罪者が全員サイコパスという事実もない。サイコパスでない人でも犯罪を犯すことはあるし、そもそも犯罪を犯さないサイコパスもいる。

犯罪を犯さないサイコパスの代表例は、神経科学者のジェームズ・ファロンだ。彼は自伝『サイコパス・インサイド』の中で、自分自身がサイコパスであることを認めている。
というのも、ひょんなことから、ある脳画像に典型的なサイコパスの特徴を見出したファロンは、それが誰のものなのかを調べてみるのだが、驚くべきことに、それは彼自身の脳画像だったのである。彼は本書の中で、犯罪歴がないこと、家族や友人に愛されていること、神経科学者として社会に適応していることなどを克明に記している。

さて、犯罪を犯さないサイコパスについて話してきたが、実はサイコパス的特性が犯罪のリスクを高める見方に間違いはない。
だが、ここまで読んできたあなたは、こんな疑問を抱かれたのではないだろうか。
「じゃあ犯罪を犯すサイコパスと、そうでないサイコパスの違いは何だろう?」。
早速、答えを言ってしまおう。
それは生育的環境である。


悪にさえ共感するのなら、悪を予防する社会を


少し前には生物学的決定論、遺伝子的決定論などという悲観的な考え方が支持されていた。ところが、現在は遺伝的特徴だけでなく、生育的環境を含めた複雑な相互作用が人格を形成してゆくといった考えが支持されている。
当然、この生育的環境が与える影響は小さなものではない。実際、サイコパスの人も、そうでない人も、肉体的・精神的虐待の有無、周囲が日常的に犯罪行為に手を染めているかなど――によって、犯罪率が変化することが解っている。
先に挙げたジェームズ・ファロンも、両親や兄弟からたくさんの愛を受けて育った旨を述べている。

犯罪は犯してしまえば罪となる。同情したり、共感したりしたところで、その罪や被害が融けて消えてくれるわけではない。
だが、罪と向き合い、罪とは何か、何が罪をひき起こすのか、それを考え、罪の予防策を考えることで見えてくる明るい未来もあるのではないだろうか。
どうか目先の甘い言葉に溺れ、考えることをやめないで欲しい。そして素晴らしいアイデアを思い付いたなら、それを誰かに伝えて欲しい。間違っていても構わない。その時は、また考え直せばいい。
取り返しのつかない罪を負う、可哀想な人たちを生みださないために。

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