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マゾの女性たちと話していてわかること【コラム#046】

いつもとはかなりカラーが違う話題だけど、あくまで「個性」目線。

■普通の生活に溶け込んでいて違いはほぼない


一時期マゾ性の強い女性何人かと続けて会ったことがある。ここでいうマゾ性とは性的なことでただの性格のことではない。
ひとくちにマゾといっても、そこにはさまざまな種類がある。ひとくちにイギリス人というようなものだ。なのだが、深掘りするとややこしくなるので、今は「タイプが色々ある」と覚えてもらうといい。

さてそのみなさんは一応全員仕事をしていた。職種はさまざまで医療関係の人もいたし、個人事業主の人もいた。普通の会社員をしている人もいた。
よくよく話を聞いていると彼女たちはごくごく普通の、一般的な、そのあたりにいる女性と何も変わらなかった。極論、性の分野だけ極めて人と違う趣向があるということだった。それはまるで、休日は山登りが趣味なのでこの週末は○○山に行ってきます・・・という様子に近い気がした。

趣味も性的嗜好も、好みで、個性の現れで、ハマる物事だと考えるとほぼほぼ近いものだという印象を受けた。推し活という物事があるけど、あれも好きな推しを追いかけて熱意を込めて活動するということを考えると、マゾ女性が性的にMを追求するのは別に不思議でも何でもない。

仕事ぶりを見ただけでは山が好きで毎週末登っていることがわからないように、普通に接しているだけでは相手がマゾなのか、はたまたサドやノーマルなのかは普通はわからない。
そのぐらいある分野(つまりSMとか山登り)に【だけ】コミットしている様子がうかがえた。
M何だから受け身が好きだとか、そういうこともなかった(あくまで普段の生活上)。


■大きな違いは見つけることができなかった


好きなことを人は語れるもので、その方々も自分の嗜好を話した。話したい?と思っている様子もうかがえた。普段わかってくれる?聞いてくれる人があまりいない物事だからかもしれない。
こうなると俄然「一般の人とは違い」「マゾの性質もオリジナル」だということが簡単にわかった。ある人は縛られることが至上だったし、別の人は監禁される妄想の理想話を延々とした。別の人は自分の嗜好はあまりなく、相手に合わせることが得意なようだった。

この女性たちだけに共通しているのかわからないけども、恥ずかしいという感情はあまり持っていないようで、むしろちゃんと筋道持ってやりたいことをやりたいと言っているような様子だった。
自分の嗜好があまりない人も希望や期待は持っていた。

ただ中には自称マゾなのでただ自分だけがいい気持ちになりたいというゲスいのもいた。性癖というより、人間としてダメな人だった。
どういう分野でもそういう人はいるから、とりわけどうということはないが、言えることは真性マゾの人とそうでない人は全然違うことだと思う。

初期の心理学で「問題は全て親の愛情と性的な屈折に現れる」という幻想を未だに信じている人がいる。全く違うとまでは言わないにしても、基本的には的外れだ。つまり、SもMも身長が高い、低いという性質と変わらない。身長が高いことを誇りに思う人もいればコンプレックスに思う人もいる。低い場合も同じ。マゾ女性を300人ぐらい集めると、心を病んでいる人もいるし朗らかな人もいるだろう。問題ある親の元に育った一定の%がいれば、ごく普通の親元で成長した一定%もいる。


■マゾ女性は生き方も尖っているか?


むしろ話を聞いていて意外に思ったことがある。何人か聞き続けて「どうやらこれはそうらしい」と思った。
それは性という大事であるし、人と密に関わることでもあり、個性の現れが「尖っている」ことでもある、そんな尖りがあるなら精神的にとか思考的に、生き方とか人との関わり方も自ずと平均からかけ離れると思っていた。
ところが話している早い段階で的外れであることがわかった。

山登りが好きでも日常生活に影も形も出てこないように、というより全く別物として扱われているように、その時期に話したマゾ女性も全く同じように考えていた。
基本、平均的な日本人であろうとし、平均的な考え方をし、平均的なあり方で居続けようとしていた。これは意外ではあったものの、事実を目にすると得心のいくものでもあった。別の物事なんだと納得できた。
だからこそマゾ女性の中には、ノーマルの男性と結婚する人を多く見かけるように思う。そしてそういう女性の中には性的な欲望を別の人で満たそうとする人も一定数いる。多いとか少ないとかはちょっとわからない。しかし「それとこれとは別」というスタンスがあるので、罪悪感もないし普通に割り切って家庭なり仕事を大事にする。
やはりどこまでも「山登り」で考えるとわかりやすい。休日山に登っても晩御飯までには家に帰る。山に没頭しすぎない。


■集中するのではなく、全部


話はそれだけだ。ただただわかったことや気がついたことを書いた。
個性的であることは「尖り」と密接な関係がある。だけど、尖っているところ【だけ】尖っていて、個性を生かしているのではなく個性の特徴的な「一部分」だけを生かしている、そういう人がどの分野でも多いのだなという感想を持った。

あまりこういう話題を出さないし、noteでははじめて書いた。
それで言いたいことは本題から外れるけども、いろいろとやること、自分が少しでもそうしたいと思うことから、こだわりがあるものまで貴賎なく色々な物事に接触するといいということ。何がいいか?個性を十分に扱う自分であるためにいい。尖った一分野が尖るのはいい。突き抜ければいい。だけど「他は何もありません」という様子は、客観的に見て人間的魅力に欠ける。個性は他人と違う要素だから、そこを押してこそ自分だけの魅力を出せるようになる。
そのためには自分の中の大きな尖りも、小さな尖りも、全部やってみて、形にして、飽きたらやめて、また次自分でないといけないことに取り組む。

何人かのマゾ女性を見ていて、そういうことを感じたし思った。
平たく言うと1つや2つの尖りだけしかない人をあまり魅力的に思うことはなかった。


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