【周産期メンタルヘルス】産後うつと診断されていたPTSDの母親

 周産期に関わっていると、精神症状を抱えている妊産婦がそれなりにいるということに気がつく。これは一新生児科医が心穏やかに子育てに向きあえるように妊産婦の精神症状と向き合うニッチな物語である。

 今回は私が精神療法を行った2人目の方の話である。最初の方の治療をした翌週にその方にであった。その方は前回のお産が済み自宅に帰った後から、夜になると理由のよくわからない不安と悲しみがわき上がってきたため、精神科を紹介された。「産後うつ」の診断で夫の協力も得ながら1年間内服による治療を受けだんだん落ち着いたという。
 今回のお産も前回同様、特に経過に異常なく元気な赤ん坊を出産された。出産当日の夜中、前回のお産後と同様の「理由のよくわからない不安と悲しみ」のため泣けてしまい、赤ん坊は夜間新生児室に預ることになった。その次の夜も同じように悲しくなって泣いていた。 

 このままでは夜の子育てが難しいことが予想されたため、お産から2日目に産科病棟に何度かお願いを繰り返し、この方にお話を聴く機会を得ることができた。まず漠然とした不安と悲しみに焦点を当ててお話を聴いてみたところ、前回のお産の時と同じ感覚であるが、理由は自分でもよくわからないということだった。不安と悲しみをターゲットに眼球運動による脱感作と再処理(EMDR)を試みた。しかし、悲しみの軽減や記憶の惹起はなかった。次にこの方のこどもの頃からの話を聞いていくと、中学生のころに潔癖症のため精神科に通院していたということがわかった。その頃の出来事を深く掘り下げて聞いてみたところ、中学卒業の前日に家が半壊する事故があり、修理をしても直りきらず、雨漏りをしたり、ネズミが出たりする中で生活をしなければならなかったこと、夜の階段が怖かったことを涙ぐみながら語った。そこで壊れた家で過ごした夜の記憶をターゲットにEMDRとブレインスポッティング(BSP)を行った。BSPで一点を見つめているうちに涙があふれだし、ひとしきり涙を流した後、荒くなっていた呼吸が徐々に落ち着いていった。主観的障害単位尺度(SUDS)は10点満点から6点、4点と下がっていった。その方はなぜ思い浮かんだかわからないけれども、頭に今使っているお気に入りの傘とネズミ、階段が浮かんできたと語った。最後に幼少期の楽しかった家のイメージを思い浮かべてもらいながら眼球運動を行い、家の安心感を強化した。
 そのときは傘、ネズミ、階段の意味はわからず流していたが、後日になってこのケースを思い出したときに雨漏りの記憶を自分のお気に入りの傘を差すことで乗り越えたのだろうと推測をした。EMDRやBSPは特にこちらから誘導することがなくても、こういう内観的なトラウマの乗り越え方をすることがある不思議な治療法である。

2日後、産科病棟退院当日、「夜は眠れています、大丈夫。怖い時も若干あるけど気にせず寝れます」と笑顔がみられていた。退院後1週間での健診では「入院中に話を聞いてもらってから不安が減って夜よく眠れるようになりました」、1か月健診では「夜が全然怖くなくなった」と語ってくださった。

 それから数年たったある日、たまたまこの方の名前を病棟で見かけたので声をかけたところ、「覚えてます。あれから嘘のように夜が大丈夫になりました。夫ともすごい先生にあえてよかった、と話してます」と次のお子さんを抱きかかえながら笑顔で語っており、夜のトラウマをすっかり乗り越えていたことを聞けて、私自身も感無量であった。そして2例目にしてこれだけの高い治療効果が得られるのであれば、行きにくさを抱えている他の多くの母親に適応すれば、もっともっと楽に子育てが出来るのではないかと考えるようになり、積極的に周産期のメンタルヘルスにかかわるきっかけとなったのである。最初の方とこの方が私の精神療法でのチャンピオンデータ的ケースとなった。

 このケースは前回のお産で出産後の精神症状のため「産後うつ」と診断されていたが、蓋を開けてみれば周産期に顕在化したPTSDだったのである。もし今回治療が出来ていなかったらどうなっていただろうか。今回も産後うつと診断され、長期間内服治療を受け、夜の悲しみを抱えながら子育てをしていくことになっただろう。前回は1年で落ち着いたが、今回もすんなり落ち着いたかどうかはわからない。さらにいうと、次のこどもを持つという余裕もできなかったかもしれない。

 この方が教えてくれた最も重要なことは、「産後うつ」という診断名が抱えている問題点である。周産期で母親をみていると、「産後うつ」という診断を下すためには「子育ての困り、行き詰まり」の存在が必須ではないかと最近思うようになった。精神科の診断はDSM-5という表面に出てくる精神症状による操作的な診断が中心である。産後にうつ症状が出た場合は産後うつですね、とされてしまうことがあるのである(正確には妊娠中~出産後4週以内の発症を周産期発症とする、であるが)。この診断方法の問題点は症状の原因を考えていないことである。精神科以外の分野では、疾患を考えるときに病因を考えるのが普通である。この人はなぜこの病気に罹ったか?という理由である。しかし、産後うつという診断はなぜこの人がこのタイミングでうつ症状を発症したか、という理由とは関係なく行われてしまう。この方は最初のお産の時から育児困難がそもそもなく、こどもをよくみることの出来た母親であった。夜にこどもが寝ないで困るというような典型的な悩みもなかったのである。それにも関わらずなぜか夜になると悲しくなってしまった。子育てと関係のないうつ症状を示す人は妊娠中であろうが出産後であろうが何かしら素因や原因を抱えている可能性がある。例えば妊娠中に強迫的に不安が強くなる方がいる。これは胎盤から出るhPLというホルモンの影響でセロトニントランスポータが増え、脳内がセロトニン不足になるためだと思われる。この場合は不安症や強迫症による2次性のうつというのがより正確だろう。あるいは出産後に寝ない、飲まない、思い通りにならない、とこどもにイライラして攻撃的になってしまう人がいる。これにうつ症状を伴う場合はボンディング障害と適応障害と表現した方がよい。産後うつの攻撃性は自分自身に向かう(自殺)が、ボンディング障害の攻撃性は赤ん坊に向かい身体的虐待につながっていくのである。そして産後うつの治療はストレス源からの逃避(母子分離)が候補になるが、ボンディング障害の場合は母子分離をしても全く改善せず、逆にこどもと向き合いこどもとの絆を作っていくことが治療となる。似たように見えていても治療の方向性が真逆なのだ。たとえ出産後にうつ症状が出たからといって安易に産後うつとするのではなく、理由や原因を深く考えていくことが大事であるということをこのケースが私に教えてくれてたと思っている。医療者がそこに目を向けなければ根治できるはずのものが根治されず、心に傷を抱えたまま生き続けなければならないことになってしまうのである。このように産科と精神科のスキマで困っている、あるいは困りそうなケースは決して少なくない。だからこそ周産期に興味を持つ者にしか気づかれず、タイムリーな治療を受けることの出来ないこういった妊産婦の方たちへのスキマ産業的手助けを私はすることにしたのである。


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