おやすみなさい

  「ねぇ、ちょっとドライブしない?」

午前3時を少し過ぎた頃だった。いつも突然通話をかけてくるやつだとは思っていたが早朝は初めてだった。

「車出せって?」

「うん、どうせ暇でしょ?」

「まぁそうだけど」

「じゃあいいじゃん、住所送るから来て」

「送らなくてもお前の家知ってるけど」

「あー、いま違う場所居るからそこ来てほしい」

「わかった」

「じゃあ着くころまた連絡入れて、待ってるから」

 すぐに通話は切れた。あの子からは住所が送られてきた。車で三十分はかからない距離だった。部屋着を脱いで顔を洗う。軽く髭を剃って、それから適当な服を着てあの子が羽織れるようなパーカーを一枚持った。昨日偶然金を三万程下ろしておいたから財布は潤っている。換気扇の下で煙草を吸ってから家を出た。空は少し白んできているところだった。バイトして貯金して買った中古車は小さいが自分には充分だった。


 あの子に送られた住所は三階建てのグレーのアパートだった。そこの309号室らしい。階段しかなかったので仕方なく登っていく。チャイムを鳴らすか迷って扉をノックした。すると部屋からこちらに歩いてくる音が聞こえた。ドアスコープを覗いたのだろう、数秒経ってからドアのチェーンが外されて開いた。

「早かったね」

「この時間はさすがに道も空いてるから」

「そっか、ありがとう、来てくれて」

 あの子は上がって、と言って部屋に招き入れたあとに鍵を閉めてすぐにチェーンを掛けた。

 上がるとそこに胸ぐらいの高さのあるケージがあった。

「何か飼ってるの?」

「足元にいるよ」

小柄な黒い猫がいた。青い首輪をつけていて匂いを嗅いでいた。

「かわいいでしょ」

 あの子は猫を軽く抱き上げるとこちらに寄こした。すぐに逃げるかと思ったら案外そんなことは無くて体を預けてはこちらの顔を見つめていた。

「おとなしいんだね」

「いや、珍しいわ。絶対暴れるか何かすると思ってた」

 どうしたの、と猫の頭をあの子が撫でると猫は目を細めた。

「んで、ドライブだっけ?」

「そう、ちょっと海でも何でも遠く行かない?」

「いいけどさ、ドライブ行こうなんて言うの初めてじゃん」

「あー、ちょっとね」

「ちょっと?」

 あの子は別の部屋を指した。

「理由はそこにある、かな」

 部屋に入るとそこは脱衣所の様だった。

「別に何もないじゃん」

「そう見えるよね」

 あの子は半透明の扉に手をかけた。

「種も仕掛けもございませんってね」

「はぁ」

「いくよ、3、2、1、じゃーん」

 勢いよく開かれた。そこには人が居た。いや、人だったものなのだろうか。明らかに目は虚ろで体に力は入っていない。腕がだらしなく浴槽から下りている。

「御覧の通りです」

「…なるほど」

 換気扇はガンガンに効いていて今のところ匂いなどはなさそうだった。

「どちら様です? 」

「んー、ある意味お友達? 」

「つまりセフレ、と」

「ちょっと、敢えて避けた言い方にしたのに」

「違う意味でもヤッたってことね」

「あっ、確かに~!」

 けらけら笑うあの子はいつも通りなのか、はたまたアドレナリンが出ているのかわからないが元気そうだった。

「事故った?」

「うーん、手が滑って灰皿で頭殴って包丁で刺した?」

「殺したね」

「うん。無理になっちゃった」

「じゃあ仕方ないね」

 死体を見て、自分でも驚くほど冷静でいられるのはあの子が普段と変わらないからだと思う。

「逃走のためのドライブ?」

「いや、これとバイバイするドライブ」

「だから海とか遠いところってことね」

「そゆこと」

 黒猫は死体の指にじゃれて遊んでいた。

「だめだめ、ばっちぃよ」

「飼い主ばっちくしたのはお前だろ」

「まぁそうなんだけど、私がほぼお世話してたし、実質の飼い主は私」

「飼い主もいなくなっちゃうじゃん」

「どうしてよ」

「豚箱行きですから」

「えー、正当防衛にならないかなぁ」

「ちゃんと包丁でトドメ刺してる癖に何言ってんの」

「それもそうか。でも見つからなければいいんじゃない? 」

「どうやって」

「だってドライブ行くんでしょ?」

「いずれバレるよ」

「まぁ今はいいじゃん」

「よくない」

「だけど、手伝ってくれるんでしょ」

「拒否権は? 」

「ないけど」

「じゃあそうするしかないね」

「わーい、持つべきは甘やかしてくれる共犯者だね」

 あの子に抱かれている猫は不思議そうな顔をしていた。


 作戦会議、と称してリビングで計画を立てる。どこに行きたいとか、どうやってあれを車に乗せるか、バラバラにするにしてもどうやるか、とか現実感がないまま話した。

「なんか道具とか持ってないの?」

「そんな都合よく持ってな」

 言いかけて思い出した。そういえば以前、自分で家具を作ろうと思って道具を購入した。本棚を一つ作っただけだったような気がするが確かのこぎりでは途方もなく時間がかかったため電動のこぎりを購入していた。部屋に置き場もなく車の後ろに積んでいた。

「あるわ」

 車に確認しに戻ると確かに積んでいた。そこそこいい値段のする電動のこぎりだったから切れ味は思っている数倍良かった。さすがに骨を切断するのには手こずったが解体が進むにつれて慣れていった。

「見てー、ヨカナーンの首」

 断面からまだ血が流れている生首を皿の上に乗せていた。

「サロメはこんなのが欲しかったのね」

 皿の上の髪を撫でながら言った。

「サロメはヨカナーンに恋してたんだっけ」

「そう、酷くなじられてもね」

 皿の上の男は数時間前まで生きていたにも拘わらず置物の様だった。

「サロメは報酬で手に入れるんだよね」

「そう、踊りを見せて。それで手に入れたらキスして思いを語る」

「やりたかったらどうぞ」

「えー、人前じゃ恥ずかしいよ」

「いいじゃん、なかなかサロメになることなんてないんだから」

 皿の上とあの子は見つめ合っていた。

「なんか不思議な感じ」

「念願のヨカナーンの首だよ」

「別にサロメになろうとしたわけじゃないんだけどね」

 綺麗に首を切ることができたから支えがなくても皿の上で自立していた。

「キスしてあげたら」

「でもその後ってサロメ処刑されるじゃん」

「あー、まぁ人間いずれは死ぬから」

「それもそうね」

 あの子は首を持ち上げてキスをした。見るのは気まずいのですぐに目を逸らした。逸らした先にはやつの腕が転がっていた。

「なんか、温度がきもい」

 あの子は微妙な顔をしていた。いつの間にかケージを脱走していた猫は切られた足に砂をかける仕草をしていた。




 小分けにされたその人は思ったより大荷物だった。普通の人よりは少し体格の大きい人だったのもあるだろう。車の後ろに乗せられるようになったのはお昼ごろだった。セフレの持ち物だったバッグとかスーツケースにセフレを入れた。なんとなく首はビニール袋を二重にして入れて足元に置いた。

「そういえば猫の名前は?」

「ノッテ」

「由来は?」

「曲からとった」

「あの曲の映画って犬じゃね」

「それ見た次の日に拾ったの」

「なるほど」

 彼は運転席に座ってカーナビで目的地を設定していた。

「ノッテは初めてのおでかけだねぇ」

「逃げたりしねぇの?」

「猫用のリードは持ってきてるよ。基本猫キャリーからは出さないけど」

 膝の上に猫キャリーを抱えた。横から顔が見えるようになっていて私の指を金色の目で追いかけているのが分かった。

「車は煙草臭くないんだね」

「車では吸ってない」

「それがいいよ」

 車のエンジンの音でノッテは驚いたようで小さく鳴き声を発した。

「びっくりしたね」

 猫キャリーを少し開けて頭をゆっくり数回撫でると落ち着いたようだった。


 アルバムの五曲目に差し掛かったところで高速道路に入った。

「ノッテさぁ、食べてないよね」

「ごはんはあげたよ?」

「いや、死体とか」

「食べてない、と思う。遊んではいたけど」

「食べてたら健康に良くないだろうなって」

「確かに、性格も悪くなっちゃうかもだし」

 そういえばセフレとそんな話をしたこともあったな。まだノッテが来たばかりでよく二人でじゃらしていた。あの時の私は希死念慮の塊で、今もまぁ然程変わってはいないけれど死にたい気持ちが常に眼前にあるようなものだった。

『私が死んだらノッテ食べてくれるかな』

『お前のことなんか食べたら性格悪くなりそう』

『ノッテが性格悪くなるのは嫌だな』

『でも猫は飼い主の死体、食べないらしいよ』

『そうなの?』

『犬は元が狼だからそうなりがちらしいけど』

『なーんだ。食べてくれないんだ』

『食べられたかった?』

『食べてくれれば誰にも死体を見られることは無いし』

 そういうとその人は頭を撫でてくれた。

『生きてやってもいいかなってぐらいの気持ちで生きれるようになれたらいいね』

 お前に何がわかるんだよ、偉そうに、お前なんかに希死念慮の辛さがわかってたまるかってその時は思ってた。今思えば勝手に悲壮感ぶっている私への配慮だった。そうだ、優しい人だったんだ。もう今はいないけれど。

「サービスエリアまであと一キロだけど寄ってく? 」

 気付いたらしばらく経っていたらしい。高速道路に乗って一時間以上が過ぎていた。

「うん。あ、お昼食べてないよね。奢るよ」

「やった」

 高速道路の一キロはすぐだった。




 サービスエリアで一旦降りて外のベンチに座った。

「窮屈だったろ」

 リードをつけられたノッテは自身につながれた紐にじゃれて遊んでいる。しばらく遊んでこちらと目が合うと頭をこすりつけられた。

「仲良しじゃん」

 いくつかの袋を持ってあの子は戻ってきた。

「お帰り」

「いろいろ買ったから食べよ」

 あの子は少し疲れた顔をしている気がした。まぁ疲れて当然だろうけれど。手先にちからがあまり入っていないようでペットボトルの蓋を開けるのに苦戦していた。

「そういえばちゃんと寝た?」

「それは、どっちの意味?」

「普通に」

「わかんないけどセックスって意味なら二回戦して睡眠って意味ならその間の十五分ぐらい」

「睡眠の方。てかそれほとんど寝てない」

「あーそうかも」

「まぁ飯食ったら眠くなるだろ」

「車で寝ていいの?」

「別にいいけど」

「優しいね」

「普通じゃね」

「運転してもらってるのに寝たらいけないんじゃないの? 」

「別に気にしないけど」

「じゃあ多分寝るわ」

「そうしな」

 あの子はたこ焼きを食べて笑った。唇の端にソースが付いていた。

「気になったんだけど」

「なに?」

「なんで俺なの? 」

「電話したのがってことだよね」

「そう」

 運転しながら気になっていたことの一つだった。

「まず、車持ってる。あとなんかあんまり動じなそうだったから」

「合理的だな」

「そうだね」

「でもさすがに本物はびびったわ」

「偽物は経験済みで?」

「そういうわけじゃないけど」

「私だって悪いとは思ってるよ」

「でも思ってるだけなんだろ」

「わかってんじゃーん、あ、ソフトクリーム売ってる」

 食後、あの子はちゃんと二人分ソフトクリームを買ってきた。ノッテもちゃんとご飯をもらって隣で丸くなっていた。煙草を二本吸って車に戻った。




 目を開けたら高速道路を降りて一般道を走っていた。

「ここどこ」

「とりあえず一カ所目もうすぐ着く」

 そうだ、死体を捨てに来たんだった。殺しちゃったんだった。

 一カ所目は小さな川の流れる野山にした。人がいかないところを選ぶのは難しかった。水が流れているところがあった。付近の土は柔らかくて、思ったより深く掘ることができた。

「そろそろ入れる?」

「うん」

 ジップロックに入れた切り分けた二の腕と太ももの部分を袋から出して穴に放り込んだ。ジップロックに血が溜まっていて気持ち悪い。だけどジップロックは自然に帰らないので持ち帰らないといけなかった。土を被せたら案外そこはわからなくなっていた。

 二カ所目はそこから十キロも離れていない池だった。立ち入り禁止の看板はとうの昔のものでほとんど読めない。くたくたになったフェンスを越えるのは簡単で足場の悪いそこは思っている以上に大きな池だった。試しに大きめの石を投げ込んだら音を立てて沈んでいった。そこには胸部、腹部、内臓の類を入れた。池に血が滲んでいった。

「あとは腕と足と顔か」

「そうだね」

 私が巻き込んでやっていることなのに、不思議なほど実感が無かった。膝の上でノッテはぐるぐる鳴いている。撫でていた指を捕まえて甘噛みされた。痛みはない。しばらくすると眠くなったみたいで寝てしまった。

「いいな、猫」

「飼ったら?」

「落ち着いたら飼うかな」

 なんとなく話すことが無くて、車内の音楽が良く聞こえた。




 三カ所目は崖だった。崖から投げるのはかなりリスキーだと思ったがあの子の希望だった。車から降りて伸びをする。もうすっかり夕暮れ時だった。

「やっぱりこの時間だと人いないんだねぇ」

「本当に崖から落とす?」

「なんか見てたら難しい気がした」

 崖の下はすぐに海になっているわけではない。もし海に投げ入れることができずにそこらに落ちてしまったら大変だ。予定を変更して崖の下に降りた。波が結構強い。

「ここからぶん投げちゃお」

 高い岩場に乗ったあの子は笑顔で切り分けられた腕とふくらはぎを投げた。岩場から落ちそうになったりもしたが何とか投げ込むことができた。

「良かったねぇ、あんたの好きな海だよ」

 そう言って切られた局部を投げ捨てた。その時だけ少し怖かった。

「海っていいねぇ」

「死体を捨てるっていう用事じゃなきゃもっと良かったけどね」

「それはごめんだわ」

 あの子は手をウェットティッシュで拭きながら笑った。車に戻るついでに散歩をした。そういえば今日はやけに天気が良かった。歩いていると石に躓いた。注意力が散漫になっている。それもそうだ。ずっと体は動きっぱなしで、でもそうでもしないと正気に戻ってしまう。それにどうしてあの子は殺したのか、何があったのか、気になって仕方が無かった。聞いていいものなのかもわからなくてここまで聞けずにいた。

「ごめん、聞いてもいい?」

「なんで殺したかって?」

「うん」

「協力してくれてるのに言わないのも変だったね」

 車に乗り込んだ。目的地はあと一カ所だった。

「ごめん、やっぱり帰ろう」

「なんで、あと一カ所じゃん」

「夜だし、それにノッテも疲れちゃうから」

 そう言われるとそうするしかなくなって、高速道路で帰った。道が空いていたから行きの時ほど時間はかからなかった。




 帰ってきてしまった。ノッテも流石にくたびれたようでキャリーから出すとすぐに猫ベッドへ行った。

「そういえばなんでノッテも連れて行ったの?」

「ノッテもバイバイしたいかなって思っただけだよ」

 私も床に座り込んだ。疲れてしまった。煙草が吸いたい。ノッテがいる部屋には煙がいかないように扉を閉めて換気扇を回した。

「お疲れ」

「うん、ありがとうね」

 息を吐いた。

「残り、どうする?」

「うーん、あとはなんとかする」

「なんとかって」

「まぁ、大丈夫よ」

 ここまで一緒にいてもらって悪いが一人になりたかった。だから彼には帰ってもらうことにした。

「気を付けてね」

「うん」

「じゃあ、また」

 玄関の扉が閉まった。私は彼の足音が遠のいてからチェーンを掛けた。これで一人だ。私はビニール袋から生首を取り出した。そして皿の上に乗せた。うん、やっぱりそんなに顔はそんなに好きじゃないな。瞼を持ち上げてやった。瞳は濁り始めていた。軽くキスをしてまた皿の上に戻す。ついでに髪も撫でてやった。残っていた手足も転がした。処理をちゃんとしたわけではないけれどもう血は手につかなかった。見慣れた手にブレスレットがしてあった。どうせも誰も着けないなら私が着けても問題ないだろう。短くなった煙草を転がした足の甲に付ける。割とすぐに火は消えた。灰を手で除けるとそこには丸い爛れた跡が付いた。

「これでおあいこだね」

 その人の顔に言った。



『動くなよ』

体が逃げようとするのを押さえつけられてしまってそのまま受け入れるしかなかった。息を止めて、その先が向けられていることから目を背けた。数秒、熱に耐えれば、あとはそこまで辛くない。だけどその数秒がとても熱くて長い。早く、早く過ぎ去ってくれ。熱の芯であった火が消えたのと押し付けられていたものが離れていくのを肌から感じた。

『ごめんね』

 悲しそうな顔で言われてしまった。煙草を手からそっと取り上げて抱き寄せる。

『ごめん』

 先程つけられたばかりの火傷痕が撫でてもう一度謝られる。

『うん』

 痛みの中心を撫でられて反応しそうになるのを抑えながら応えた。冷やすことができていないこの痕は長く残ってしまうのだろう。背が高いその人の頭を撫でて見かけ上の優しさを与える。その人は私の胸でごめんを繰り返して私に許しを請う。許すしか手段の無くなった私はひたすらに受け入れることしかできなかった。こんなことの繰り返しだった。痛みに慣れることは終に無かった。私はあなたに都合が良かっただけだった。それでも求められることは私の希死念慮の緩和になった。だけれどもいつの間にか傷が増えて、癒えなくなった。その人も離れて行こうとしているのがわかった。

そんな時だった。その人が他の女との写真をSNSで投稿した、たったそれだけなのに酷く揺らいだ。死にたくなった。それと同時に殺したくなった。なんでそんな幸せそうにしているのか理解したくなかった。調子に乗っているのか知らないけれど連続で投稿されたそれに吐き気がした。見なければいいのに、そんなことはできなかった。私は数えるのを辞めた火傷痕の上に刃を立てた。こんなことで死ねるわけじゃないのはわかっている。だけどこれ以外で落ち着く方法を知らなかった。

それから二週間ぐらい経った頃に会って、それが今日だった。私にまた火傷を付けて、その後に私の腕を切った痕を見た。

『また切ったの』

『そうだけど』

『痛かった?』

『うん』

 傷を爪を立ててゆっくり撫でた。痛かった。

『お前は傷つけられることで生きれるんだもんな』

『え?』

 髪を撫でられた。優しい手つきだった。

『大丈夫、怖くないよ』

 そのまま指が首を触って力が加えられていった。いつの間にか押し倒されていて抵抗ができるわけが無かった。

『呼吸できないね』

 声を出そうにも出せなかった。首を絞められることは何回かあったけれど、こんなにも強い力なのは初めてだった。唇が麻痺していくのを感じて、目を開けることがつらくなった。遂に目を閉じたとき、ふと手の力が弱まったのか空気を獲ることができた。

『苦しかったね』

 そう言って頬を撫でられた。

『俺以外にこんなことさせちゃダメだよ』

 声は優しいのに表情はわからなかった。ただそれに恐怖を感じた。私の傷跡を踏みつけた。その時だった。鈍い音の後に重いものが落ちた音がした。するとその人は覆い被さるようにして倒れてきた。頭から血が流れている。一体何が起こったのだろうか。その人をどかして周りを見た。キッチンの上の段に置いていたガラス製の灰皿が割れていた。これは重くて洗うのが面倒だと使わなくなっていたものだった。これが落ちてきたということなんだろうか。どうして急にこんなものが。足元にくすぐったい感覚があった。ノッテだった。どうやらケージを抜け出して、ドアの隙間からこちらに来ていたらしい。ノッテは軽くキッチンの上に登ってこちらを見下ろした。あぁ、ノッテが上から落としたんだ。

『降りてきて』

 小さく鳴いてから床に降りてきた。そしてすり寄ってぐるぐる言い出す。撫でているとその人はゆっくりと起き出した。息を呑んだ、あれ、私、ノッテが落としてくれなかったら…。考えだしたらもうそうするしかなかった。人体を刺すのは思ったより硬かった。けれど躊躇している余裕はなかった。刺した後その人の顔を見た。まだ意識があったその人は私の頭を撫でた。

『ごめんね』

 最後にキスだけはしてあげた。だけどこの後どうすればいいのかわからなくなって彼を呼んだ。いつも冷静に私と話をしてくれる彼ならどうにかしてくれそうな気がしたから。結局他人任せだけれども意外と上手くできた。だけど、どうしても捨てられなかった。


 彼の頭は冷蔵庫に入れた。そのうちどうにかしよう。彼の足は植木鉢の中に土と一緒に入れた。後で観葉植物でも植えよう。彼の手は憎いけれど好きだった。だから剥製にでもしてみよう。灰皿なんかにしてやるのも悪くない。でもそれは片手だけで充分な気がした。左手が余ってしまった。どうすればいいのだろう。しばらく考えていると、隣の部屋で鳴いているのが聞こえた。あ、いいこと思いついた。

 いつものキャットフードにひとかけら、良く焼いた指の肉をおいた。ノッテは匂いを嗅ぐだけで食べない。小さく切って、ノッテの好きな液体状のおやつをかけてあげた。ノッテは喜んで食べた。

「共犯だね」

 私は残りの焼いた肉を食べながら言った。骨はせっかくだし組み立ててアクセサリーでも飾ろう。ご飯を食べ終えたノッテはこちらに体をこすりつけて顔をあげた。額を撫でると嬉しそうで転がっておなかを見せた。

私はノッテを撫でながら横になり目を閉じた。ノッテは顔のあたりに来て近くで丸くなる。

「おやすみ、ノッテ」

 その日は珍しくよく眠ることができた。


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