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神とジコチューとベーコン

※このコラムは、いたって真面目な哲学の話題を取り扱っています。

以前、私は次のコラムを投稿しました。

その原因を別の角度から説明する、うってつけの概念を知ったので、紹介します。

(読了時間:約4分)

ベーコンはかく語りき

人間は、考え方や物の見方に偏りを持つものです。15~16世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、この偏見先入観を「イドラ」と呼びました。イドラは、次の4種類あります。

・種族のイドラ
・洞窟のイドラ
・市場のイドラ
・劇場のイドラ

今回、注目するのは「種族のイドラ」です。

種族のイドラとは?

種族のイドラとは「その根拠を人間性そのものに、人間という種族または類そのものにもっている」イドラのことです。これは、人類一般に共通してある誤りでもあります。たとえば、錯視は、視覚から得た情報を効率的に処理するためにできた、物の見方の癖を利用しています。

このような「癖」は、感覚だけでなく精神にも表れています。その1つが「人間中心主義」(あるいは「自分中心主義」)と呼ばれるものです。

人間中心主義とは、文字通り「人間をこの世界の中心とする考え方」のことです。つまり、この世界の基準尺度が自分たち人類にあるとすることなのです。その一例が天動説です。これは、太陽は地球(自分たちのいるところ)の周りを回っているというもので、人間から見た視点に基づいて提唱されていました。

人間中心主義によって、この世界の尺度を自分たちのものとすると、次のようなことも言えるようになります。この世界のすべては、私たちのために存在している、と。たとえば、自然にあるものや起こることの何もかもが、自分たちのためにあって、影響を及ぼしているように感じるのです。たとえば、次の歌詞にそのような性質を見ることができます。

一世一代の告白も 一生分使った青春も
夜の星に 通り雨に 助けてもらったの 僕は知っているよ

―― RADWIMPS「アイアンバイブル」

しかし、この世界にあるもののすべてが、なんでも自分や人類という種に関係があるとは言えません。重力すら遠ざかるほど無視できるくらい小さくなるのですから。

加えて、どんなものでも誰かや何かのために目的を持っているとも言えません。どんなものにも目的があると考えるものまた、目的がなければ行動しない性質を人間が持つからです。

人間はジコチューだから神を見つけた

人間中心主義に基づいて、人は自分たちの周りにあるものが、自分たちのために影響を及ぼすように見えます。さらに、それらの動き方があたかも自分たちと同じような考え方やルールに則っているようにも感じます。

その結果、自分たちが感情を持つのと同じように、自然も怒ったり悲しんだりするような、擬人的な自然観を持つのです。そうして、自然の擬人化であるを見つけたのです。

そして(以前にも述べた通り)そのような神は、人々に自然に対する知識と安心をもたらし、絶望を遠ざける力を与えるのです。

まとめ

種族のイドラとは、人間という種だからこそ持っている偏見や先入観のことです。これを提唱したのは、哲学者のフランシス・ベーコンです。

人間が擬人的な自然感を持つのは、種族のイドラによるものです。その結果、自然を擬人化した存在である神を見つけたのです。

おわりに

私は思わず笑ってしまいました。哲学の本を読んでいたら突然「ベーコン」が現れたことに。これは人の名字なのですが、まったく似つかわしくないところで見たため、目に入るたび笑っていました。

けれど、彼が言っている「イドラ」という概念が本当に興味深い。さらに「知は力なり」を最初に発言したのも、この人らしいと知って驚きました。

そこで、実際に著作である「ノヴム・オルガヌム」の日本語版を読んでみました。種族のイドラによって、擬人的な自然観を持つという根拠が知りたかったからです。けれど、ちょっと内容が詩的過ぎて難しかったです。(昔の哲学者は詩人でもあるのかもしれない……)

結局、定義の該当箇所にも直接的な表現が見つからなかったのですが、一旦このようにコラムにまとめました。知っていらっしゃる方がいれば「擬人的な自然観」についてくわしく伺いたいです。

よろしければ、スキを押していただけましたら幸いです。


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