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イカゲーム見て楽しんでるやつは人生の傍観者

Netflix史上最大の世界的ヒットドラマ「イカゲーム」
内容は韓国メディアの基本フォーマットである「格差」に、バトルロワイヤルとカイジを煮込んでトッポギを添えたようなドラマである。
正直なところ、韓国の格差社会の闇はドラマや映画からはみ出して嗚咽が聞こえるくらいのリアリティを節々に感じるので、逆になぜ今までこのドラマが誕生しなかったのかということのほうが疑問である。

ストーリーは格差社会の風刺としては王道中の王道であり、古くはローマ帝国の時代にまで遡る「金持ちが貧乏人を金で弄ぶゲーム」が「社会そのものの構造」であるというメタな視点に立つことで、金銭に囚われない美しい人間像を提示するという所謂「ヒューマンドラマ」である。
我々が何の疑問を抱かずに日々シコシコ生かされている社会とは、イカゲームで賭けに興じる金持ちのような絶対的強者が布いたルールベースで営まれている搾取構造であり、それを愚民に感じさせないように国家や官僚機構やマスメディアがシコシコ働いているのである。
たぶんイカゲームをマルクスに見せたら、エンゲルスが引くほど大笑いするに違いない。スターリンは「その手があったね」とベリヤの耳元で囁くだろう。

イカゲームを見る我々は、「社会」の落第者である参加者たちがいとも簡単に死んでいく様をただ眺めている。
彼らの死は自己責任でしかない。なぜならイカゲームは自らが参加を選択し、そして民主主義で運営されているからだ。
もちろんこの民主主義こそ、昨今の世界的な「民主主義の終わり」としての民主主義である。
民主主義の成れの果てがイカゲームなのだから。

普段ニュースで貧困のために餓死したり、つまらない軽犯罪に走る人々を見て、我々は自己責任だと片付ける。
そこには「社会」のルールを守っている自分は、彼ら彼女らとは違うと思いこんでいるからだ。
我々はルールを遵守する善きサマリア人であると。
しかし、そうした自己責任で処理された哀れな「負け組」は、イカゲームのような理不尽なルールにより「負け組」とされた存在である。
社会=イカゲームであり、そのルールでは勝者と敗者が必要であるからだ。
勝ち負けがないと人は働かない、そして勝ち負けがあると人はゲームだけに集中し客観的な視点を失う。
我々は幼少から常に「理不尽なルール」のゲームをやらされている。その中で負けた人たちは、イカゲーム内のゲームのようにただの運要素や生まれ持った性質に左右されているだけだ。
要は、実際の社会も理不尽なルールで行われているゲームであり、自己責任とは運なのである。
学校や会社で求められる「善」も、社会が求める「善」も、すべて理不尽なルールでしかないのにも関わらず、そう見えないように細工されている。
学校の教師、警察官、会社の上司、政治家、裁判官、親・・・彼らはイカゲームの運営側の仮面の男たちなのだ。

我々は強制的に参加させられる理不尽なルールによるゲームで、延々と戦わされている。
結果はすべて自己責任として処理される。
だが、イカゲームと違い我々はゲームを辞めることができるという事実を「教えてもらえない」のだ。
現実社会はイカゲームよりずっと理不尽である。
社会というゲームに負けることは負け組であり死そのものである。
そう教え込まれた我々は、敗者を自己責任として処理し、勝者に近づけるよう努力させられる。
だが、それは良い大人が必死で子供の遊びに興じるあの惨めな姿と同じなのだ。

イカゲームを見て楽しめるのは、自らの人生を傍観しているからだ。
自らも社会という理不尽なルールのゲームの参加者であるのに、そして今のポジションもただの運であり、いつだるまさんがころんだが始まるか知らないだけなのだ。
そんな事実をなぜ我々は気づかないのか?
それは社会というゲームの最大のルール違反が、「疑うこと」だからである。

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