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生き辛さの原因を隠し続ける社会

生き辛さを抱える人々は延々と苦悩し続ける。
それは終わりなき苦しみ・・・ではない。
だが、なぜあなた達は生き辛さを抱えているのに根本原因を探ろうとしないのか?
「自分が悪い」「コミュ障だから」「あいつが悪い」「いじめが悪い」「大人が悪い」「日本が悪い」
そうではない。
あなたが生き辛さを抱えているということは、生き辛さを抱えていない人間もいるということだ。
なぜなら生き辛さとは、他者との比較の上で感じる『適応感』であるから。
学生時代や社会人になって、「なぜあいつはあんなに適応できているのか?」「なぜ自分より劣っているあいつは楽しそうなのか?」「なぜあいつは皆に好かれて自分は好かれないのか?」
なぜ自分は適応できないのか?彼ら彼女とは何が違うのか?
それこそが「生き辛さ」であり、つまるところ社会に適応できているか否かという相対的な問題なのだ。


社会に適応するとはどういうことか?

そもそも社会とは、時代によって変遷していく人間統治システムである。
石器時代は得物をたくさん穫れる屈強な人間が有能とされたし、江戸時代の百姓なら勤勉で忍耐強く村の掟に逆らわなければ皆に認められながら生きていけたし、戦中ならお国のために死ねることこそ「適応」とされていた。
これはすべて人間が集団で暮らすことにより生まれた社会が求める個人への対価である。
人間は集団で暮らし、集団を大きくすることで安全と安定した生活を手に入れてきた。
集団で暮らすことで農業が可能となり、文明や文化が発展し、官僚機構を整理することで自集団をより強力な中央集権的な集団に変えていき、国家が生まれた。
現代の我々は、急に国家や社会から見放されたらどうなるかということすら想像もできないくらい順応している。
社会は人間に安全と生活を提供する代わりに、個性を殺すという対価を求めた。
赤信号を無視する人間が多ければ多いほど交通機関は維持できないように、それは宗教や法律を駆使して多数の人間をどうにかして枠にはめ込んできた。
この枠こそが社会である。多数の人間を統治するためには、ノイズが少ないほうが良い。
それにより生まれた概念、例えば年長者を敬うとか弱者を救済するとか感染症患者を隔離するとか、こういったものは当然であるとされている。
だが、あるアマゾンの少数民族は移動について来れなくなった高齢者や病人は置き去りにするか殺してしまうし、感染症が魔女のせいにされ多くの女性が殺された。
社会に適応するということは、社会が提示するその時の枠の中からはみ出ないように個性を殺すことだ。

現代社会で生き辛い人々

要するに現代社会で生き辛い人=適応感が薄い人々は、先天的に現代社会が提示する枠に合っていないだけであるということが多い。
現代社会ではそれを「空気が読めない」「行儀が悪い」「発達障害」「精神病」とされている。
そしてそれを教育やマスメディアを駆使して、『自己責任』として処理している。
社会に合わない人間は適応するように努力すべきであるという道徳、これこそが生き辛さの原因である。
我々は努力しているにも関わらず、やはり枠からはみ出してしまう/枠を批判的に意識してしまう。
枠を批判してはならない。それを親や学校や会社により矯正され続ける。
現代社会に適応しているものは、枠に対する反感を抱かないように、当然だと思えるように努力したものである。
よって学校教育で是とされている「足が速い」という特性を持っている人間は無条件で称賛される。だが、学校で習わない・推奨されていない特性に秀でているものは無関心か排除される。
足が速いことが社会で役に立つのか?そんな疑問は感じてはならない。それが社会なのだ。

例えば僕の事例でいうと、子供の頃からこの枠への反感が非常に強かった。
親や学校の教師のいう「そういうものだ」が理解できなかったからだ。そこで合理的な説明を求めると拒絶、もしくは暴力でねじ伏せられてきた。
今思うと「そういうものだ」とは、社会の枠のより強固な芯の部分、要するに大人たちも非合理的だがそういうものだとしか考えられないくらい概念化してしまったものだったのだろう。
例えばまっすぐ並べとか、置き勉をするなとか、不服な顔をするなとか。
クラスの不良が「学生らしい悪さ」をした時はさほど怒らないのに、枠の非合理性を指摘する僕は烈火の如く怒られた。
結局、善とされている教師こそが統治システムに無反応で囚われているだけの官僚であったのだ。
だが彼ら彼女らの言うことは絶対的に正しいとされていた。
そのダブルバインド(矛盾)への違和感を感じる自分が悪なのであり、無関心なクラスメートは善なのである。
この苦しみは相当なものであった。
いわゆるスクールカースト上位の人間は、持って生まれたリソースを「学校が提供する枠」とその中だけの「コミュニケーション」にうまく適応させるからこそ、上位者になれるのである。
僕は今思えばスクールカーストからすら排除されていた。枠が理解できない不気味な少年だったのだ。
いじめられる人間とは、スクールカーストというその場の枠に適応できない人間である。先天的、もしくは自己犠牲によりスクールカーストに適応した人間たちは、スクールカースト内のパワーバランスの維持のために弱者を排斥する。
彼ら彼女らはそれが適応の術だと知っているのだ。そこには権力と性の搾取構造がある。
僕がそこに入らなかったのは、スクールカーストの枠外の行動をしていたからだと思う。
スクールカーストに順応しようという努力(コミュニケーション、記号的な見た目の順応)もせず、かといって枠外の突飛な行動をする(スクールカーストを無視した上位者への反抗、教師への反抗)など。
要するに、スクールカーストに適応しようと努力している者たちにとって、スクールカースト外でも平気な人間はパワーバランスを破壊しかねない異分子なのである。
僕の仮想敵はスクールカーストでも教師でもなく社会システムだったのだ。
いわゆる暗黒時代、中二病の重症なやつだ。
これはかなり突飛な事例ではあるが、要するに僕という異邦人からみた社会は、常に僕を排除し続けてきた。

適応の努力を全くしないものも社会を意識している。彼らは犯罪者か精神病患者として社会から役所的手続きで排除される。
僕は常に反感的態度で社会の外側にいながら、社会に負け続けたために打算的に順応してきた。
だから、今でもこうやって一市民として暮らしている。
だが、複雑化した現代社会において、大なり小なり僕のような異邦人は多いのではないだろうか?
僕は独学を通して我儘な知識武装をすることで、辛うじてアイデンティティを維持できている。
だが、そうではない人間はどうなっているのだろうか?
それは偏に搾取されている。
現代社会が勝手に決めた枠からはみ出していただけで、無能とされ、運よく適応しているだけの人間にバカにされ、適応者の適応している感の演出装置として存在している。

社会の枠は、枠内で闘争させることでシステムを維持している。
社会に無反応に順応する熱狂的信者には社会的な成功と安全を、そうでないものは自己責任の名の下排除する。
それが生き辛さの原因なのだ。


生き辛さを解消するためにすること

まずは「社会」を知ることだと思う。
大人たちが言う「そういうものだ」の構造を理解すること。
そうしなければ社会システムからの排除を自己責任として自らを傷つけてしまう。
そして社会が要求する従順な人間に自分がどこまで適応できそうかを知ることだ。
僕は、仕事は割り切って働ける資格職、趣味に生きる、社会的な成功は諦める、社会的な付き合いはやめる、こんな感じで適応出来なさそうなことをやめたり簡単な解決方法に変えることで何とかアイデンティティを保っている。
これならストレスを限りなく少なくすることができるし、無駄な競争を促進する概念と決別できる。
金銭的な成功、素晴らしい経歴、良き家族像、ブランド品のような記号的消費、同僚や近所の付き合い・・・すべてを疑ってみることだ。社会が求める成功像、社会が促す当たり前、社会が欲しがる人材、それはすなわち社会システム維持のために必要不可欠な神話であり、それが個人の幸せに繋がるかといったら「それは個人による」のである。
社会の枠に合わないのであれば、まずは枠が何かを知ること、そして自分を知ること、枠と自分を照らし合わせて最適な和解案を検証すること、それでもだめなら違う社会へ移動すること、もしくは社会が自分に合うように働きかけること。

なぜ社会を知る事が重要であるのか?
それは社会の枠を意識しないように教育されてきているから。
社会システムの提供側が勝手に決めたルールで行われている運ゲー、要するに社会はイカゲームなのだということを隠しているのが社会なのだ。
もちろん社会は悪ではない。だが、絶対的な価値基準でもない。
生き辛さとは安全性が失われている状態なのだ。よくわからないまま自分の存在が否定されている、そしてそのことが当然とされている。
そんな不安定な環境では常にストレスを感じなければならない。
環境を変えることは、意識を変えることである。

まずはあなたが幸せになることができることを認めよう。
そしてそのために何ができるか考えよう。
そこには安易な答えはないし、答えまでの道は長く険しく苦しい道のりだ。
その先に本当の居場所があるのだ。
押し付けられた居心地の悪い場所はあなたの家にはならない。
そしてあなたは幸せになれるのである。

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