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エッセイ:汽水記 第1回/「ホムペの遠浅」

 秋と冬のあいだの肌寒い日、乾燥した教室の片隅でカチカチカチ、とケータイの下スクロールボタンをただひたすら連打する。制服のスカートの股の上、糊のゆるんだ襞のあいだに埋めるようにしてケータイを隠し持つ。小さな画面に浮かび上がっているのは声も知らないどこか遠くの人間の、それでいて自分の心にいちばん近い人間の書いた長い長い日記で、そこに紡がれた彼ら彼女らの何気ない日々の光景を、わたしはまるですがりつくようにしてむさぼり読む。深くうつむいたわたしの頭上ではクラスカーストの高い生徒たちの喧騒や先生の間延びした授業の声がわんわん反響しているけれど、ケータイの小さな画面のなかの日記に没頭していれば、それらもやがて通り過ぎてくれる。

 秋も冬も春も夏も、ひたすらそれを繰り返す。誰かの日記を読んでいるあいだは時間も空間もぜんぶが永遠のようだったのに、そうして気づけば、十数年。

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 中学・高校、そして大学生の初めの、無遠慮な大人たちからは「多感な時期」であると生あたたかく見守られてしまうあの頃、いわゆる「ホムペ」の全盛期だった。まだ誰ひとりとして1代目のiPhoneを持っていなかった頃、機種変更をする度に奇抜なデザインになり、着うたフルやビデオ機能やワンセグ機能が熟れた盛りをむかえた、これ以上進化したら熟れすぎてケータイという存在そのものがはじけて腐り落ちてしまうんじゃないかというほどに飽和していたガラケーを、みんなが制服のポケットに必死に隠し持っていたあの頃のことだ。

 中学に上がり自分のケータイを手にしてもパケット通信料を気にしてほとんど「ezweb」のボタンを押さなかったわたしがホムペにたどり着いたきっかけは、たぶんいま思えば思春期性の鬱だった。思春期性、という言葉の冠を付けるのは当時の自分を冷たく突き放すみたいで裏切りの気持ちをおぼえなくもないけれど、それを経てなんとか大人になれたいまの自分だけは、あの頃の自分に対してそういう冠を付ける資格があるような気がする。というのはひとまず措くとして、小学校から高校まで長くつづく湿っぽいいじめとそれなりの家庭不和で息をするのも苦しかった十四歳のわたしは、下校したあとの自宅の居間で集団練炭自殺のニュースを度々ワイドショーで観た。ネット自殺が異様なまでに流行っていたのだ。当時「死のにおい」のするものなら小説でも深夜映画でもなんでも、とにかくなんでも目を通さなければすまなかったわたしはパケット代金を気にしつつもいつのまにか自殺、掲示板、と検索画面に打ち込んでいた。いまはそんな単語をひとつでも打ち込めば検索ロボットが「自殺対策支援」「いのちの電話」「あなたの思いをきかせて」などという白々しい結果を表示するけれど、当時はとてもかんたんに練炭自殺やODの同志を募集する類の、魔法のiらんどの個人サイトがあらわれ出た。

 なるべくひとの多そうなサイトがいいと思った。何ページか行きつ戻りつして選び出したのはもうサイト名は忘れてしまった一面真紫色のサイトで、管理人の若い男のひとの日記と掲示板がちょこんとある簡素なつくり、それでも利用者は多いと見えて、掲示板にはコテハンありの常駐がだいたい20人ほど居り、書き込みは一日に10はあった。自分ひとりで自殺する気も誰かを募集する気もさらさらなかったわたしも、和やかな、それでいて個々が自らの弱さを誰に届けるともなしに書き連ねては一日を送っているその文字の世界に惹かれて、そのうちHNを持って交流するようになった。自分の一番はじめのHNは源氏物語占いで該当したキャラクターの「花散里」で、少なくともいまだったらもっとマシな名前を付けるはずだと思う。

 幻聴、という現象の存在を子どものわたしに教えてくれたのは、その真紫色のサイトの管理人だった。

 果たしてほんとうに実行していたのかどうかはわからないけれど、その掲示板でも時おり自殺の募集はあって、けれど失敗する度に参加者たちがそれを律儀に報告してくれるのが面白かった。ひとの生活の気配を感じ取る面白みを知ったわたしはそのうち魔法のiらんどの親サイトから「日記」のカテゴリを頻繁にチェックするようになる。ほかのサイトをも覗き見るようになったその頃、真紫色の自殺サイトは何の前触れもなく閉鎖されてしまった。

 やがてパケットは定額制となり、わたしは大学に上がる。同じ専攻の気の合う数人と共同で開設した交流サイトで前略プロフィールやエムペの作成方法を覚えたわたしは、大学のものとはべつに自分だけのホムペを誰にも知らせることなく作った。素材屋から可愛らしいボタンやバナーを保存し、色見本やタグ見本のホムペからコードやタグをコピペ、あるいはHTMLをせっせと手打ちしては趣向を凝らし、初めこそ「あなたは今日〜目のお客様です」だの「キリ番の方は掲示板へ」などというダサい文句を動くリボンで表示するような稚拙なものだったけれど、作り慣れてくるとどんどんコンセプチュアルでシンプルなものになっていった。

 リンクはリンクを呼ぶ。下層のリンクをいくつか手繰れば、やがて自分にとって居心地のいい上層のリンクに、いつのまにかたどり着く。

 アングラサブカル日記ホムペ、とこうして文字だけであの世界を表してみれば、なんだかとても胡散臭く嘘っぽく子どもっぽい。けれどあのホムペたちの世界を言葉にしていまの誰かに伝えるならば、これしかないのかもしれないと思う。

 2018年のいまもまだもちろんひっそりと存在はしているけれど、「ランキングサイト」というものが当時わたしの世界と誰かの世界をつなぐ入り口だった。そこでのランキングがわたしたちのステータスであり、自らのサイトに対する短いポエティックな紹介文がわたしたちのアイデンティティであり、そもそもどのランキングサイトに登録するか、そのサイトのリンクボタンをどのような気のきいた配置や記号で表示させるかが、若いわたしたちのセンスのすべてだった。

 いまはそれぞれ30ほどしか残っていない登録の日記ホムペが当時は300以上あった。アングラサブカル系のホムペの集うランキングサイトは全盛期にはおそらく50以上はあって、そのアングラサブカル系ランキングサイトをまとめるランキングサイトなんていうものも存在していた。ランキングサイトそれ自体の名前もほどよく力の抜けたそれでいて鮮やかな印象のものばかりで、たとえば「土曜日」「SF」「東京モダンアパートメント」「coda」「ガリレオガリレイ」「null」「呼吸」「music has the right to children」「無名」「モンパルナスの庭で」「最近あなたの暮らしはどう」など、書き出してみただけでも記憶が一瞬であの頃に巻き戻される。

 ランキングサイトのなかでもわたしがとくに好んで入り浸っていたのは「SF」「呼吸」「土曜日」という、より一層アングラサブカル成分が強めの日記ランキングサイトだった。高校や大学の授業中はほぼつねにケータイを机の下に隠してカチカチカチカチと登録サイトを巡回し、新たなブックマークを増やすことに夢中になっていて、ケータイの代わりに本を机の下で広げることもたくさんあったけれど、結局はどちらにしろ自分のいまいる世界とはべつの世界をただひたすら文字として深く深く吸い込みたかったのだ。

 ランキングサイトの上位者はそのホムペが閉鎖されない限りほとんど入れ替わりが生まれなかった。群を抜いて訪問者を獲得するホムペが当時だいたい7つほどあった。

 上位のホムペのページ構成やそこで紡がれる日々の傾向はとても似通る。情報量の少ないトップページ、バグや文字化けになったような記号の羅列がじつは隠しのリンクボタンであること、抽象的なプロフィール、HNも意味深なものが多く、半顔で自撮りされた写真はガラケーの粒子の荒さもあいまって個人を特定することはかなわない。しぜんと目を惹く日記のタイトルは、まるで果てしない言葉の海の底から拾い上げられてきたひとつのピンク色の貝殻みたいに魅力的で。エムペの日記や「memo」「リアタイ」と呼ばれていたalfooの日記がメインのコンテンツではあれど、ひっそりと撮られた短篇映画のようなケータイの短い動画であったり、センシュアルな写メやイラストだったり、詩や掌編を収めたページがあったり、読んだ本や漫画、音楽の感想アーカイブが備え付けられていたりもする。

 わたしの好きだった日記の紡ぎ手たちはみんな文学や過去のサブカルチャーや映画や音楽を何よりも必要として生きていた。そしていずれも、セフレや恋人はいつもそばにいるのになぜなのか幸福な恋愛にはぜったいに恵まれない、ほんの少しだけ齢上のおねえさんたちだった。

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 仮名で、Yさんというひとがいた。彼女のホムペの日記がわたしはいまでもいちばん好きだ。Yさんは山陰の粘つくように裏ぶれた町から東京に出て来て大学に上がり、最初はふつうの大学のふつうの学科に所属していたけれどやがて美術予備校に通い夜はスナックで働きながら芸大に転学した。Yさんは坂口安吾なんかの話もよく日記に書いていて、ガロに載るような漫画が好きで、江古田ちゃんや浅野いにおの漫画のよさには日記ホムペのなかで誰より早く気がついて、彼女の描くリアルなデッサンやスケッチは恐ろしく巧く冷静だった。自撮りは一度だけ貼っていたような気がするけれどもうわからない。居候ちゃん、というふにゃふにゃの繊細な男の子と同棲していて、彼が恋人なのかセフレなのかは日記を読んでいてもはっきりとせず、そのはっきりとさせない日記の筆の運びが見事だった。

 Yさんは両親が離婚していて、父親は山陰で女と暮らしていて、母親はべつで生きている。数年続いた彼女の日記のなかで、ある日Yさんの姉が病気で亡くなる。最期は身体がぶよぶよに肥満して壮絶にいってしまった。Yさんと彼女の姉は生まれた時から毒のような関係で絡み合っていて、スナック勤めや居候ちゃんとの生活のふとした瞬間に、彼女のなかで呪いみたいに呼び起こされる。それらの光景が抜けるようなリズムのいい筆致であっけらかんと描かれる。闇に蝕まれそうになる心のなかが吐露される。プロの作家のどんな小説よりも彼女の言葉とその日々はわたしの胸をつよくうったし、どこの誰かもわからない遠い彼女の日々は、わたしの日々のかけがえのない一部だった。

 日記やめます、と彼女が唐突に記しホムペにアップしたのを、わたしは大学に向かう途中の焼肉臭い近鉄鶴橋駅のホームで目撃した。ホームを行き交う渦のようなざわめきが、その時、ケータイの小さな画面のなかへ物凄いスピードで吸い込まれていった感触をいまでもはっきり憶えている。

 何年も蓄積されてきたYさんの日記は、三日間の猶予ののちにストンと消えた。

自分の日々の一部を失ったわたしはそれから長いこと途方に暮れていた。それでもその喪失感はいつのまにか自分のほんとうの日々のなかに溶け消えて、べつの何かがわたしの日々の一部となった。ひとの死は思い出されなくなったその時にようやくほんとうの死となるのだ、というどこかで聞いた言葉がもしその通りなのだとしたら、しかしまだこうして思い出すわたしのなかで、Yさんの日記は続いているのだと思う。

 彼女の日記をまるで自分のもののようにして読んでいたわたしはあの頃の彼女の年齢を飛び越えてこうして生きているけれど、彼女はいま、どんなふうにこの世界で生きているんだろうか。

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 安壇美緒の『天龍院亜希子の日記』という、ある女性の個人ブログを日常的に閲覧する行為に取り憑かれることをひとつのモチーフに採用した中篇小説に、こんな一節がある。

 こんなブログ、誰が読んでるのかと思ったが、そもそもこれは誰にも読ませるつもりのない日記なんじゃないかと俺は考えた。普段、俺が目にしているのは「みんな」に向けての投稿だった。「みんな」に向けての元気な投稿。あるいは読まれる前提の愚痴。山の頂上から叫び散らかすようなSNSしか俺は知らない。比べて、天龍院のブログは狭小な井戸だった。リンクも何も貼られていない、アフィリエイトもない、密室。よく特定の友人にだけ見せているような内容のブログというのがあるけど、そういう雰囲気でもなかった。狭くて暗い井戸。天龍院そのものといえば、天龍院そのものだ。/引用(P37)

 多少の違いはあれど、読むひとが読めば、小説のなかで描かれる天龍院亜希子のブログというのが、あの頃のわたしたちの「ホムペ」とほとんど同じ〈井戸〉なのだと一瞬でわかる。あの遠い日々のホムペもまた、リアルな友人には知られずに日記を書き運営するのを暗黙の了解とし、誰に宛てるともない自分たちの日々を限られた感性のひとびとの群のなかへ放出するものだった。微かな交流を打ち返しあうこともあったけれどそれはほんとうにささやかで、基本的にアングラサブカル日記ホムペにはコメントも拍手も設置されておらず、メールフォームすらないものも珍しくなくて、日記を放出する者同士がみな黙ってしぜんに距離をとる。永遠に会うことのない遠い誰か。ただひたすら自分の日々を自分の言葉で書き尽くし、同時に誰かの日記が更新されるのをただひたすら待つ。
 書き綴られる彼ら彼女らの日常にはまるで小説みたいにつぎからつぎへと刺激的なできごとが巻き起こる。叶う見込みのないセフレとの恋、不倫、憧れのバンドのライブに行ったこと、高校や大学での出逢いと、その蓄積。店頭で何気なく買った植物のひと鉢のゆっくりとした成長。そうこうしているうちにまた新しい男ができて、ケータイのメールで呼び出される。ねとねとした恋愛やセックスを終えて浴びた眩しすぎる朝陽と、その時に自分の支えになっていた、本や映画や音楽について。匿名の書き手と、そこに記される匿名の、けれど確かに生きているらしい登場人物たち。

 いまだったらありえない、と思う。たとえばTwitterやinstagramではつねに自分が明るくあることを余儀なくさせられる。誰かの日々だけを淡々と読みたいのに、ほしくない情報までもがなだれるように入ってくる。義務だとか意地だとか、世間体。いまのSNSにあの頃のホムペ日記のような内容を書けば、落ち込んでいる人間は無慈悲に病み認定されてしまって、おとなげないと蔑まれる。

 それは孤独を奪う暴力だ。

 ホムペの日記は嘘を言っても言わなくてもそれが誰も傷つけなかった。書いた言葉が届く相手は遠浅のなかにぽつり、ぽつり、と突っ立っている、自分と似たような並行世界の人間たちばかりだった。だからほとんどの書き手が自分の日々に起きた秘密を紡ぐことを、ためらわないのが美しかった。

 秘密、秘密事は増やせば増やすほどにつらくなる。少しだけ話が逸れると、秘密事、というものについて考える時にいつもわたしの頭に浮かぶのは倉橋由美子の『蛇』という短篇小説で、その物語では自分の体内に棲みついている蛇がある日口から出てきて、対峙のかたちになった自分をがぶりがぶりと喰いはじめる。自分が蛇を喰っているのか、蛇が自分を喰っているのか。それと同じように秘密事も、わたしが秘密を守っているのか、秘密にわたしが守られているのか、あるいは、わたしが秘密を支配しているのか、秘密がわたしを支配しているのかわからなくなってしまう。

 日記を書きつづけるうちに、刺激的なできごとたちはしぜんとこちらへやって来た。日記を書くために日々を送っているのか、日々を送るために日記を書いているのか、そんな境界線もあいまいで、それでもわたしたちは取り憑かれたようにカチカチカチと文字を打ち、誰かの打った文字を読んだ。
誰かの人生を下世話に消費するのとは正反対の、それはとても尊い営みだった。

 リアルな世界とけして交わることのないホムペの日記で、ほとんどフィクションのようなかたちで自分の秘密を長々と放出することは、何にも代えがたい大切な排泄行為だったのだ。

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 ホムペというひっそりした〈井戸〉は、iPhoneやそのほかのスマホが普及しバージョンアップするごとにどんどん遠くへ消えていった。多種多様なSNSアプリが一般化してきたからなのかもしれないけれど、そもそもアングラサブカル系日記ホムペのプラットフォーム自体がガラケーでないとどうしたって魅力的に見えない、あるいはガラケーのボタンでみみっちくカチカチしながら日記を探して読まなければ意味がないのだと、ホムペのみんなが動物の本能みたいに感じ取ったからなのだと思う。
 ひとり、またひとりとおねえさんたちはホムペで日記を書かなくなり、すばらしい日記の書き手たちはわたしの日々から剥がれて消えていってしまった。

 そうはいってもインターネットの海はどこまでも続いていて、おそらく「ホムペ全盛期にアングラサブカル日記ランキングサイトで上位のホムペを運営していた」だろうと思われる(または「あのひと」だと確信できる)ひとたちが、いま20代後半から30代前半となり、淡々と生活を紡ぐアルファツイッタラーやプロの作家になっていたりもして、どうしたって魅惑的な日々を紡ぐひとは魅惑的な日々を紡ぎつづけるんだろうし、「日々をフィクションじみて書き尽くす魅惑」からはそうかんたんには離れることができない。
 そういえば最果タヒがエッセイやブログで「中学生の頃からブログで詩を書いていた」と何度かそう書いていて、彼女のもつ言葉の魅力と来歴とそれから若い感情に寄り添い深く共鳴するあの力は、きっとあのホムペ日記の世界のものなのだと、それを読んではっとした。

 わたしのホムペ日記は結局10年ほど続いて、更新をやめてからもしばらくインターネットの水面にぼんやりと残していたけれど、日記のサービス自体が終了してしまってサーバーから完全消去され、もうどこにもあの時の日々や言葉はない。

 それでもわたしの書いていたあのフィクションじみた秘密の日々を、精一杯の言葉を尽くして生きていた憂鬱に冴えていたあの日々を、わたしがYさんをいつまでも憶えているみたいに、どこかの誰かが記憶してくれているんだろうかと時々ふと思う。

 いまもまだブックマークしている更新のなくなったホムペ日記たちの残骸は、錆びついたラブホテルの廃墟や大量の植物に覆われた空っぽの長屋みたいで、心の底からいとおしい。


LEDライトの日   ユニットバスの電球が切れた。朝、支度をしている時だったのでそのせいでいつもより遅く会社へ。夜、落ち合ってカレーを食べたのちにそのことをやっと思い出す。LABIがまだ開いていたので、LABIへ入った。私が電球をカバンにそのまま突っ込んでいたのがばれ、叱られる。こんなの簡単に朝の電車で割れてしまうという。確かにそうだ。電球コーナーに行くと、何やらいろんな種類の電球があって、白いのもそうじゃないのもあって、現物を持ってきてよかったと思った。同じものを買おうとすると、LEDにすれば? と言われる。普通のやつは値段が安いから、と言ったところ、LEDは物凄く長持ちすると言われた。十年は交換がいらないらしい。それならまあいいかなと思い、購入。家で付け替えている時に、ふと、でも十年後は私はこの部屋に住んでいないのではないかと考える。十年後の私は、どういう部屋で、誰と暮らしているのだろう。/引用(P54)


引用:安壇美緒『天龍院亜希子の日記』/集英社, 2018年3月10日発行

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