愛してくれてありがとう

神様、愛してくれてありがとう

愛してくれてありがとう。


愛してくれてありがとう。
って心から素直に言えるようになったのは
たしか22歳になってからだった。


生きてきた中で、
私にとって自分を愛することは
決して簡単なことではなかった。
「自分を愛する」って書くと、
とてもかしこまっている気がするけど、


自分を好きになることは
想像もできないようなことだった。


でも心の底では、自分を愛したい、
ってずっと思っていた。
少なくとも、自分の人生を肯定したい、
それがせめてもの願いだった。


でも、それができない自分が
悲しくて、苦しく、毎日もがいていた。


私は小さい頃から
自分の感情を隠すことが得意だった。
どんなに辛いことでも、
何も起こっていないように
平然と過ごすことができるのだ。


誰が私がこんな葛藤を心の中で
持っていると気づいただろうか。
一番近くにいる母でさえ
気づいていなかったと思う。


今では、それで良かったと思っている。
言うのならば、そうであるべきだったと思う。
なぜなら、自分が求めているものを
自分自身で探さなければいけなかったから。



「自分って生きている価値があるの?」


こんな疑問がいつも頭の中をぐるぐるしていた。
こんな、疑問がずっと心の中にあったのは、
自分は愛されない、必要とされない人間なのかもしれない
という恐れだった。


必要とされる存在かどうか。
愛される存在かどうか。


小さな私はこその答えを
どのように知ることができたのだろう。
正しい答えをどうしたら導くことができたのだろうか。
この答えは、決して簡単に答えることができないだろう
って薄々わかっていた。


この、社会は常に私をジャッジしている
って思いいていた。
私たちは、常に評価させる対象。


学校に行けば、私たちは成績表をもらって
どれだけ素晴らしい成績を残せたか評価される。
いい子なら親から褒められるし、
社会的な期待にさえ答えられなければ
ダメな人間というレッテルをはられる。


親の期待に答えられれば◎、
そうじゃなければ堕落者。


そして、常に判断され決して世界が求めている期待に
沿えないとわかったとき
いつも絶望してしまっていた。


これから先も、人のからジャッジされ
人からの評価の中で
生きていかなければならないのか。
社会から認められる
素晴らしい人になれなかったらどうしようか。


社会から認められて、
いい評価をもらえる人だけが必要とされ、
愛され、価値があると認められた人が生きる世界ならば、


私は、生きる価値がない人間なのではないか。


********************


オーストラリアで新しい生活も始まって
環境にもなれてきたころ。
私は、聖書を持って椅子に座っていた。


歴史上世界で一番読まれている聖書。
この本のが人生につついてどんな大切なことを
教えてくれるというのだろうか。


といっても、わたしはクリスチャン系の高校だったため
、最初の言葉には精通している方どと思っていた。
特にワクワクする気持ちもなく友達2人を待っていた。


「お待たせーーー!」そう言って
やってきた2人は
椅子にどっしりと座ると
待ってましたと言わんばかりに聖書を開いた。



偶然か否か、その時私は放蕩息子のたとえ話に出会った。
その話の主人公の息子は、
自分の欲のために父を背き間違った道にいってしまう。
そして、たどり着いた状況に苦しむことになる。
当然といえば、当然なのかもしれない。


しかし、息子が自分の罪を悔い改め、
父のもとに戻って来たとき先立って
息子の罪を許し寛大な心で彼を受け入れてくれる。


人は、自分が何の間違いもない、
この世から与えられるすべてのものに値し、
それを受け取と権利があると思っている。


自分の心を見ずに、
何か思い通りにいかないとそれを環境のせいにする、
そしてみじめになった自分を見てこう思うのだ
「こんなはずじゃなかった。」


この話を読んだとき
この話の主人公はまるで私のようだ、と思った。


それと同時に、頭では理解できないような
深い深い感情が心の中から湧き上がっていた。
一生懸命涙をこらえようとしている自分がいた。


きっと、愛されているってこんな気持ちなのだろう。
私は、その時初めてこんなにも大きな愛に出会った。
空っぽで飢えている心の中に、温かさが広がった。
こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうか。
こんな気持ちになったことがあっただろうか。


この愛こそ私の魂が求めていたものだった。


それまで、私は目に見えるものしか
信じられなくて。
それが私の全てだった。


でも、自分の心が、
そして魂が愛されていると知ったとき。
それは疑いようもないことだった。


自分って生きている価値があるのか。
必要とされる存在なのだろうか。
愛される存在なのだろうか。


そして、これらの自分の葛藤と共にあった
疑問も決して私に二度と問うことはなかった。
そして、聖書には書いてある。


「わたしの目には,あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)



そして、私は愛してくれてありがとう、って
私の人生を通して感謝を伝えていきたい。
そして、ずっとその大きな愛に感謝しながら
生きていきたいと思っている。

















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