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#6 アイチュチュー

 いろいろ書きたいことがたまったまま、日本に帰ってきてしまった。羽田から京急の始発が出る少し前に着くタイガーエアに乗って。一日半経って、まだねむい。でもただいま!

 久しぶりの日本は寒くて湿っぽい。でも今日外に出たら、春の香り。チューリップ、モクレン、ユキヤナギ、桃、大家さんの桜が下の方、少しだけ咲き始めている。台湾に帰る前に咲いていた梅の枝にはもう青い葉が生えている。春の香りという言葉にはじめて出会ったのは、中学生の時、「ほら、春の香り!」と、帰り道に同級生のあゆみちゃんが突然言い出した時で、あの時あゆみちゃんはみんなに、またあゆみが変なこと言ってるー、と笑われた。春の香りというのが本当にあるんだと私が知ったのは、あゆみちゃんに遅れをとること20数年、つい数年前のことだ。春が近付いて、スーッと春の香りがするたび、私は中学生のあゆみちゃんを思い出す。

 愛之助の誕生日なので、母にLINEで電話した。今日で3歳になった。母がすぐビデオ通話に切り替えて、キッチンのはしのピンクの椅子に座ったアイーが、画面の向こうから「加油!」と私に声をかける。私は「好!」と大きい声で返事をしてから、愛之助、愛之助、と中国語で愛之助を呼び、愛之助が母のスマホ画面にやってくる。日本語を忘れられないように、アイノスケーと何回かは日本語を混ぜて呼ぶ。愛之助は中国語で読むと、アイチュチュー、みたいな音になってとてもかわいい。アイチュチュー。アイチュチュー。私の頭の一部はまだ台湾にいるままで、夜、布団の中で目がさめて、あ、トイレ行こうかな、となって思い浮かべるのは、台北の家の廊下とその先のトイレだ。私が日本に戻る日、桃園からおばが来て、その数日前から新店から母のいとこが来てるから、今母の家に全部で4人いる。もう一人はおばの孫の大学生男子。プラス愛之助。家に人が多いとホッとする。私が小さい時も、あの家に母と二人だけということはめったになかった。今頃きっと食卓で母とおばとアイーが三人でご飯を食べて、見ていてお腹の空いてきた愛之助がその邪魔をしに行っている。

 日本に戻る日、いとこに勧められた台灣大車隊のアプリで空港行きタクシーを予約して待っていると、
 「下次妳回來我們一起做バーツァン。」
とテレビを見ていたアイーが言った。做バーツァンという言葉があまりに久しぶりで、一瞬返事ができなかった。最後にみんなで肉粽を作った時、私は20代で、ということは母は50代、おばは40代、アイーは60代だった。母のもう一人のいとこも来て、一人100個作る計算で、材料は母たち4人で分担して買ってうちのキッチンに持ち寄り、裏のベランダにお風呂用みたいなプラスチックの低い椅子を出して、そこに座って400個のバーツァンを巻き、しばった。端午節を過ぎると台湾はいよいよ暑くなる。バーツァンが作れる人は私たちタイヤルの家族にはほとんどいない。バーツァンはカハツの食べ物で、あのおいしいちまきの面倒な作り方を知っているタイヤルはカハツの家に嫁に行った女性だけ、その女性達から習った作り方を母やアイーは再現する。

 「この頃のアイーは本当に嫌だよ。私はもうだめだ、とか、私の人生は一番ひどい人生、早く死にたい、体中悪い病気だらけ、你們不知道、私の運命は一番悪い、私の息子も悪い息子、嫁も誰より悪い嫁、孫の面倒は全員私が見たっていうのに、あの悪い嫁、早く死んでしまえ、みんな私を見てそう思ってるに違いない、だったら今すぐ死んでやりたい。もう毎日それのくり返し。」
 と、アイーがいないところで母は私に文句を言う。アイーはうちに来ると、いつもあのキッチンのはしのピンクの椅子に座って、台所仕事をしている母に向かってタイヤル語で延々と自分の悪い運命の話をする。おばの声はとても大きく、空気中をスーッと通る周波数のツボにピタリと合った音程で、全体的に高く、家のどこにいても聞こえる。タイヤル語はところどころしかわからない私には音楽のようで、私は子どもの頃から、母やおばたちのタイヤル語のおしゃべりを聞くのが好きだ。昔働いていた頃のアイーは家でも中国語や台湾語を混ぜて話していたが、今回会うアイーはほとんどタイヤル語になった。おばあちゃんも最後そんな感じだった。死ぬ前のおばあちゃんは、私がわかろうがわかるまいが、私にもタイヤル語しか話さなかった。
 母はアイーの愚痴が我慢ならなくなってくると、ベランダの花の手入れをしなきゃ、とか、愛之助の毛が抜けてすごいから掃除機かけなきゃ、などと理由をつけて逃げていく。足が悪くなって家の中でも杖をついているアイーは、掃除機の後ろまで母を追いかけていくことはしない。アイーはスマホを出し、おばにLINEで電話する。
 「兩個小時四十分」
 前回の電話は2時間40分、とおばは私につぶやいた。

果物を買いに行きたいとアイーが言うので、母と私と3人で。
アイーはKN95マスクを2枚重ね。


 アイーがうちに来る数日前、キョンの肉を取りにくるよう、母にアイーから電話があり、母とおばと三人で取りに行った。エリが帰ってきたから食べさせてあげて、だって、と母が言う。それ誰がとったやつ?と聞くと、不知道是誰、是環山的吧、と母もおばも口をそろえる。環山の誰かが獲ってきたキョンを、私たち三人は台北から捷運とバスを乗り継いで、アイーの新店のマンションまで取りに行く。アイーのマンションのエレベーターの修理が始まり、6階に住んでいて足の悪いアイーはキョンを担いで1階まで降りることができない。修理は1ヶ月以上かかるらしい。

 アイーは四季から環山に嫁いで、その頃の彼女を私は知らない。私が知ってるアイーはもう山から下りてきて新店に住んでいて、背が高く、髪はストレートで腰あたりまで長くて、いつも頭の高い位置でポニーテールにしていた。目がキリッとつり上がった超美人なせいか、タイヤル美人というより、京劇の美しい女役のような美人だった。母が「我們去新店」と言う時、それはアイーの家に行くということで、遊びに行くと、向こうからチャカチャカ音を立てて小虎というパグが走ってきた。みんなかわいがっていたが、はしゃいであちこちよだれをたらすので私は苦手だった。客間のテーブルにはいつも瓜子が置いてあって、隣にはキャンディ包みになった1cm角キューブの魚味のつまみみたいなのも大体あって、私はそれを食べたり、瓜子をきれいに割る練習のついでに中身を口に入れたり、ついでに殻の方を吸って、この味もいいな、とか思ったりした。アイーの客間には小さな部品のパーツがたくさん入った内職用ダンボールも数箱置いてあり、大体は子どもの私でも組み立てられるような部品だったので、アイーや母がおしゃべりする横で、私も一緒に内職するのがとても好きだった。全部終わってしまうと残念なくらいだった。アイーは工場で働いていた。
 
 アイーには息子が3人いて、一番下が私の5歳上、歳が近いのでよく一緒に遊んだ。一番上はもう定年、そんな年か、といつもびっくりする。彼の中でもきっと私は子どものように幼いんだろう。私が思い浮かべる彼は、新店溪で一緒に遊んで面倒を見てくれた、あの大きいお兄さんだ。写真の中、母が日本で買ってくれた花柄の水着で川に浸かっている私はまだ幼稚園で、私の後ろでやさしく笑っているブーメラン海パンのはとこは、まるで大仏のように大きい。徴兵帰りのたくましい胸、あのお兄さんは何年か前に定年になり、海釣りが趣味で、この間はカツオが獲れて、大きいのは海岸で待ってた人たちが買っていってしまったけど小さいやつがまだ冷凍庫にあるから、これもキョンと一緒に持っていって、食べきれないよ、とアイーが言う。
 アイーの二番目の息子もあの写真の私の後ろにいる。カメラを見ないで、どこか違う方を見て笑っている。川という名前だった。彼は高校生の時、川で溺れて死んだ。水が膝くらいまでしかない浅いところで溺れて、そのまま流されて、あの日から私の中から幸せというものは全て消えてなくなった、とアイーは言う。私が最後に川に会ったのは、アイーが息子達を連れて母のところに遊びに来ていた時で、アイーはその時もポニーテールだった。川は映画を見にいく約束がある、と先に一人で帰った。私と、当時母と私と一緒に住んでたいとこと、アイーの一番下の息子と、三人で玄関まで彼を追いかけて、エレベーターの扉が閉まって川が見えなくなるまで、行かないでよ、一緒に遊ぼうよ、あー!彼女とデートなんだー、と三人で何度も言い続けて、ジャケットを着た川が鉄の門の向こうで笑っていた。


 古亭から捷運の中和線に乗って、景安という駅で降りた。古亭からたった3駅のこの駅の場所も名前も私は全く知らない。地下のホームから地上へ出るまで、エスカレーターがとても長い。駅舎も新しいのに、景色全体が黄ばんだ色合いに見える。これどこなの?とおばに聞いても、我東西南北都不知道呢、と返される。駅の外に出ると、おばさんがゆでたとうもろこしを売っている。金属の大きい鍋から湯気が出ている。目の前に高速が走っていて、その上を環状線という新しいMRTが走り、下の方でもいろんな道がタテヨコななめに交差していて、人も車も混み合っていて埃っぽい。川がいなくなってからアイーは新店の中で何度か引っ越している。今のアイーの家に行くのははじめてで、こういうところに住んでるんだ、と思いながらバス停に向かって歩き、しばらく外出が難しいアイーのために、バス停の前の聖瑪麗に入ってパンをいろいろ買って、自分用にカフェラテ大杯を買った。台湾で今流行っている苺大福の2個入りも買った。アイーにひとつ、アイーと一緒に住んでる一番下の息子にひとつ。彼にもずっと会っていない。一緒に台北花博に行ったのを覚えているけど、もし本当にそれが最後なら2010年ということになる。そんな訳あるだろうか。

 「ここからどうやって行くの?」
 母がおばにたずねる。
 「我現在打電話給她」
 おばは薬のせいもあるのか、前よりずっとおしゃべりになって、でも少しぼんやりしているようにも見える。治療が一応予定通り進んでいるということでもあるのか。結局母がアイーに電話して道をたずね、私たちは橘1というバスに乗った。バスが近付いてくると、母は手を挙げずんずん人の前へと進んで行き、私とおばは母にちょっと遅れてついてバスに乗る。二人がけの席に母がおばの席を確保していて、私は二人の後ろに座る。台湾のバスの揺れがいつも懐かしい。大胆に揺れて、こういう揺れは日本のバスにないし、台湾でも路線バスに乗らないとこの感覚を体で感じられない。はじめて乗るバスだからか、窓の外に山をずっと見ているからか、なんだかすごい遠いところに来ているように感じる。

 母、おば、私の順番で一列になって、6階まで階段を上り、アイーが玄関のドアを開けた。アイーに会うのはいつ以来だろう。いつもLINEで話しているけど、会うのはコロナの始まる頃だから2020年か。最後に会ってから三年分年老いたアイーは、少し背が縮んで、変わらず愛想がない。
 「アイー、好久不見呢」
 私が話しかけると、アイーは目を光らせて私を見る。アイーの口元が綺麗に笑う。そのアイーは私の知ってる一番綺麗なアイーそのものだ。三年分年をとったアイー、最後に会った時のアイー、その前のアイー、日本に遊びに来たアイー、新店溪でパラソルをさすアイー、昔の家で小虎を呼ぶアイー、白黒の写真の若いアイー、母とLINEで自撮りをするアイー、母のキッチンで運命を呪うアイー。私の知ってるアイーも知らないアイーも、全部のアイーが、この新店のアイーの家にキョンを取りに来た私の前でみんな重なって存在して、
 「好久不見、エリ」
と嬉しい顔で私の肩をさする。私もアイーの肩をさする。本当に久しぶりだね、と、全部のアイーの肩をさする。


 あの日持ってきたキョンとカツオを、母とおばとアイーと4人で食べた。 「今回のキョンは皮もついてておいしい」
と私が中国語とタイヤル語を混ぜて言うと、
 「おいしくないキョンなんてあるかね」
とおばが中国語で言う。
 「あるよ、タイヤみたいに硬いやつ。年とったやつ」
と母が中国語と日本語で言うと、
 「それはキョンじゃない。キョンは硬くない。硬いのは山羊と猪」
とアイーがタイヤル語と中国語を混ぜて言う。
 愛之助がテーブルの上に上がって、母の前で、俺にもくれ、と座り込むが、家猫ミックスという出自のせいか、キョンに興味を示さない。愛之助の一番好きな餌は、袋鼠と羊肺ミックス。変なのばっかり食べて、あれ高いんだから、と母は、カンガルーと羊の肺のカリカリを、少し安い深海魚のカリカリで割って、アイチュチュー跟大家一起吃飯咯〜、と愛之助のお皿も私たちのテーブルに乗せる。

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