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2/19/24(月) 原住民の養子

 台北は今日も晴れ。今日は30度まで上がるらしい。日本から履いてきたショートブーツじゃ暑い。夏用のスニーカーがほしい。
 
 お正月気分はどんどん抜けていくが、新年初九の昨日は台湾の200以上の神様の中でも最上位である玉皇大帝の誕生日。あちこちの廟でお正月の続きのように拜拜していた。

 玉皇大帝はベジタリアン、かつニンニク・ネギ・ニラなども食べないタイプ。拜拜の時のお供えの基本は三牲(豚、鳥、魚)で、より本気バージョンは五牲(プラス鴨かガチョウ、エビやロブスター等)になるが、玉皇大帝はベジタリアンなので、誕生日には果物やお餅、お菓子などを供える。ベジタリアン用三牲や五牲として、動物や魚の形に作ったパイナップルケーキを供える、というのもありらしい。他にもベジタリアンの神様いるのかしら。
 そういえば前に、日本に持っていくお土産用にパイナップルケーキを買いに行ったら、どこのお店だったか、豚バラブロック型、魚型、丸鶏型のパイナップルケーキがセットになって売られていて、まあかわいい、と眺めた。ベジタリアンの神様用だったとは。次のベジタリアンの神様の誕生日には、私もパイナップルケーキの三牲をお供え用に買って、拜拜すんだら齧ってみたい。

 祈ることと食べることが密接に結びついてるのはとてもいい。近所の廟を通りかかると、おじさんおばさんたちが廟の脇に机を並べて、拜拜の日にはカラフルなテント屋根の下に集まってごちそう食べていて、神聖な場所というより屋台とか誰かの結婚式みたいだ。

 昨日は玉皇大帝に敬意をこめて、誕生日一日ベジタリアンで過ごす人も多いらしい。日本で言ったら七草粥みたいに、疲れた胃をリセットする意味もあるのかも。そして殺生厳禁。「殺」という言葉を口にするのもNGだそうだ。昨日私は、台所のパパイヤに寄ってきていた小さなアリを、片っ端から指で潰した。どうして私はアリを殺すんだろうと思いながら。邪魔だから殺す、のだとしたら恐ろしいことだ、と思いながら。
 

Time 13:00- 前往八斗子 Head for Badouzi

旅のしおり From Mountain Top to the Sea Edge: A Homeward Perspective
Maori-Taiwan Eco-Arts Workshop 1/30-2/3, 2024 より

 マトゥアの同級生のお店でお昼ごはんを済ませ、正濱教會の前のバス停に戻り、そこから八斗子という漁師町へ向かってバスに乗る。40分くらい。

 これだけの人数で移動していると、それぞれのタイミングでみんなトイレに行きたいと言い始めて、何かとトイレタイムがやってくる。トイレに関しては私は圧倒的に日本人なので、台湾のトイレはよっぽどのことでもない限り自宅以外は入らない。20代くらいまではむしろ冒険心があって、ここは凄そうだぞ!というのにむしろ燃えるというか、どんなトイレが来ても勝つ覚悟を決めて入っていった。マオリの若者たちは、あの頃の私とちょうど同じぐらいの年頃。蹲式のトイレで前後どちらを向いてしゃがむのか悩んだという以外、特に困ったことはなさそうにしている。

 八斗子に向かうバスは私たちのほか、一、二名のお客さんだけ。窓の外、基隆にはめずらしいという快晴の景色を眺めながら、マトゥアの話を思い出していた。平日だったのもあるけど、観光客はほぼゼロ。地元の人もどうしていいかわからない。かつて繁栄していた正濱の全盛期を思い出すべく、ここをベニスに見立てて、港に面した建物をカラフルに塗ってみたら人が来るようにはなった、と、連れて行ってくれたのが、みんなで吉古拉(チークーラー、肉薄のちくわ)を食べたあたり。
 " Cheap paint."
と、マトゥアが言った。

 日本の例にもオランダ村とかスペイン村とかあるけど、あんな大型でなくても「まるで外国みたい!」な気分になれるスポットは、台湾でも人気だ。この春節の休みも、台湾では山の方でちょうど桜が咲いているので、みんなこぞって写真を撮りに行き、「好像在日本」とか「美到不像在台灣!」とか続々とSNSに投稿しているのを見かける。
 
 彩虹屋と呼ばれているこの正濱の一角は、マトゥアの目には安ペンキのまがい物のように映っているのだろうか。日本でも台湾でも、異国情緒に訴えかけるよう設計され、作られた場所にいると、私はなんとも虚しいような気持ちになってくる。まるで自信がないのの裏返しみたいで、作り込まれていればいるほど、誰かが作った箱庭を見ているような、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、直視するのが難しい。
 
 作り込みに関していえば、日本が圧倒的にレベルが高い。個人宅でもやれ南欧風だったり北欧風だったり、藤沢の私の住んでいるあたりでは、ここはカリフォルニアやハワイの一角の延長なのだと信じることにして暮らしてるような家があちこちある。そういう家から出てくる奥さんたちは、紺や薄いブルーのマリンルックだったり、自らの装いも同じコンセプトで作り込まれている。そういうところに日本人らしさが表れているし、奥さんたちはみんな素敵だ。

 台湾の場合、この「台版威尼斯(台湾版ベニス)」もそうだけど、作り込むという方向にあんまりいかないように見える。なんとなく中途半端で、でももしかしたらむしろ身の程をわきまえているというか、異国風と言っても日本人的感覚からするとずいぶん手前に妥協点があるようだ。ざっくり大味で、これくらいで十分楽しめるからこれくらいで楽しもうよ、という暗黙の了解があるみたいだ。作ってる方も、見にくる方も、ある意味良識ある大人なんだろうか。 

正濱から眺める和平島。

 安いペンキでベニスに見立てなくても、台湾島の北端にある基隆のこのエリアは、世界の様々な場所から海を伝ってやってきた者たちで、過去、非常に繁栄していた。マトゥアは正濱の向こう側に見える森のような緑を指さして、あそこが和平島、台湾島から最も近い離島、と教えてくれた。75mだけ離れた離島だ。

 和平島には、バサイ族という原住民がいた。3000年前の遺跡まで発掘されているので、その頃にはまた別の人たちがいたのかもしれないが、よくわからない。バサイ族という名前が歴史にはじめて登場するのは400年前。スペイン人の文献に basay という名前で出てきて、いい感じのスケッチが残っている。
 バサイ族が他の台湾原住民と違って面白いのは、彼らは交易を営む商人だったことだ。大航海時代の始まる数百年前から、琉球や南アジア、東南アジアとの国際貿易を行っていた。語学に長けており、体も大きい。売っていたのは、ヨーロッパの留め具、中国の磁器、白地に青で模様の描かれた中国の青花(染付)、安平壺、瑪瑙のビーズなど。

 17世紀に入り、スペイン人が基隆を占領し、和平島にサン・エルサルバドル城というのが作られて、要塞かつ貿易拠点になった。またカトリックの布教のため大きな聖堂、修道院、墓地が作られた。スペイン領キールン、と書くとそれだけで異国のよう。
 ドミニコ会の修道院は文化の中心としても機能していたようで、そこに集まったのは、スペイン人とバサイ族の他に、漢人、日本人、琉球人、朝鮮人、フィリピン人、フランス人、メキシコ人、アフリカ人、オランダ人、と思っていたよりずいぶん国際色豊かだ。基隆がそういう場所だったとは全く知らなかった。占領、と一言で言っても、日本と台湾の間もそうだったが、人と人の間には、一面的では捉えきれないいろんな関係性があっただろう。

 スペインはその後、台南に拠点を置いていたオランダに負けて追い出され、そのオランダもまた、明清に追い出され、フランスもまた清に追い出された。その間バサイ族は通婚を重ね、今も末裔は残り、文化も少し残っているが、言語は絶滅した。

 バサイ族も過去の繁栄も見る影なく、今やすっかりさびれた正濱の漁港で働いているのは、インドネシアやベトナム出身の、台湾で「新住民」と呼ばれる人々が多い。私たちがマトゥアの話を聞いている間、彼らは後ろの方でひまそうに網を直したりしていた。彼ら新住民が来るようになる前、基隆の漁業がもっと盛えていた頃、ここにやってきて働いていたのは台東や花蓮のアミ族たちで、家を建て、集落を作った。沖縄や済州島からも、仕事の多い基隆へ漁師たちが移住してきていた。


 ガラガラのバスはずっとガラガラだった。途中、一人か二人降ろしては、また一人か二人、お客さんを拾って、八斗子というところに着いた。

 八斗子文物館に向かってみんなと歩きながら、私はマトゥアが正濱の船着場で、私は長い間、自分には原住民の血が流れているのではないかと思っていた、とマオリの学生たちに話していたのを思い出していた。

 マトゥアの母親の姓は「潘」、さんずいに番と書く。原住民は番人と呼ばれていたから、名字の中に番の字が入っているということは、番人の出自を表しているのではないかと。後に調べてわかったことには、自分は原住民とは関係なく、客家だったこと。自分の母親は、家が貧しかったため、原住民の家庭に養子として育ててもらったということ。その原住民の養父が亡くなった時、マトゥアの母親はその育ての親の実の子どもと同じく、子の一人として、山の土地や財産を分け与えてもらい、そのおかげで他の客家たちよりも経済的に楽に暮らせたこと。

 そういえば私のいとこおばのところにも、漢人の養子が二人いた。彼らはお兄ちゃんと妹同士で、小さい時私もよく一緒に遊んだので覚えているが、今はどうしているのだろう。二人とも結婚したと聞いたけど、いとこおばともほとんど音信不通のようだ。歐という姓だった。

 台湾全体の歴史を見ると、漢人はみな原住民の養子のようなものだ、とマトゥアは続けた。身一つで移民してきたこの島で、自分たち漢人が、今に至るまでこのように繁栄しながら存続してくることができたというのは、つまりこの島のそもそもの主人である原住民に、自分たちは皆養子のように育ててもらってきたということなのではないか。自分たち漢人はみな、原住民に育ててもらった恩があるのではないか、とマトゥアが言った。

 そういう風に考える漢人がいるんだ、と私は深く驚いた。
 
 漢人である彼が、今まで30年もの長い年月にわたって、いくつもの原住民部落とそこに住む原住民たちと深く関わり合い、生態環境学の研究者として、環境運動家、社会運動家として、30年も精力的に活動しているのには、一体どういう動機があるのか、不思議に思っていた。今までこういう人と知り合う機会もなかったが、知り合ってみたいと思ったこともなかった。もしかしたらすっかり疑い深くなっているのか、どうしてそこまで原住民と関わろうとする人が漢人に存在するのか、全然わからなかった。

 そしてこの旅に出る一週間前、孫大川先生に言われた言葉を思い出していた。漢人とちゃんと関わりなさい。原住民同士で集まってばかりいてはいけない。それでは問題を解決することができない。

 確かに私は問題を解決できていない。内も外も、解決できていない。

 私は、漢人ともそうだが、日本人とも、ちゃんと関わることができなかった。自分のこれまでの日本での人生は、もしかして失敗だったんじゃないか、この頃そういうことをよく考えていた。
 藤沢の家で、近くのスーパーに買い物に行こうと外に出て、するとまるで風景が私を通り過ぎていくような、向かっているのか折り返しているのかわからないような感覚になっていった。心の中で一体何が起きているのか、わからず、ただ苦しい気持ちがしばらく続いたが、自分の失敗を少しずつ認めることができてきてから、やっと、少し遠くの方が見えそうなすっきりした気持ちになった。

 ずいぶんかかってしまったけど、でも遅すぎてしまう前に、今から私も、自分の場所から、日本人と、漢人と、ちゃんと関わっていくことができるかもしれない、とマトゥアの話を思い出しながら考えた。


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