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海は返す(短編小説)

海の日なので、海の話を書きました。暗いです。

 釣りに行ってくる、と言って出かけた弟が、帰って来ないまま一年が過ぎた。整理されていない弟の部屋で、めくられないまま日に焼けていくカレンダーを眺めていたら、玄関のドアが開いた音がした。おかしいな、とは思った。父さんも母さんも、今日は遅くまで帰らない予定の筈だ。
「ただいま」
 そんな声と共に現れたのが弟だったから、おれは変な声を上げた。一年前、出かけたときとそっくり同じ格好で、なんなら顔も体つきも、一年間のブランクを感じさせるものではなかった。ひょろっと長い腕と足はカレンダーよりも白いし、にかっと笑ったその目元は、一年前に出て行ったときと同じだ。
「お前、なんで」
「いや、普通に帰って来ただけだけど。え、なんかまずかった?」
 混乱しているのはおれだけらしく、弟は悠々と釣り道具を片付け始めた。
「いや、だってお前、一年間、帰って来なかっただろ。みんな心配したんだぞ。海に落ちたのを見たって人もいたし、父さんと母さんも‥‥‥」
「はあ、何それ。兄ちゃん、暑くてぼーっとして、夢でも見たんじゃないの」
 呆れたように言う弟を、おれは未だに信じられない思いで見つめた。夢なんかじゃない。この一年間、重苦しい空気の中を、窒息しそうな気持で過ごしたことは、決して夢なんかじゃ。
「じゃ、じゃあお前、今が何年の何月何日だか言ってみろよ」
「え? 二〇二一年七月二十二日」
 即答され、おれは言葉に詰まった。正しい。合っている。
「今朝、今日は海の日だから海に行きたいって話、したばっかじゃん。なんなの、まだ昼の三時だよ。兄ちゃん、お酒でも飲んだ?」
 呆れたような口ぶりに、何も言うことが出来ない。弟は片づけを終え、そのままベッドに寝転がった。何も上に掛けないまま、さっさと寝息を立てはじめた。
 おれは訳が分からず、その寝顔を凝視する。まず間違いなく、これは弟だ。見た目や口調といった些末な情報には関係なく、同じ血を分けた兄弟として、直感で分かる。それに、こいつは嘘が付けるような奴じゃない。よく分からないジョークを言うような奴でも。だから、おれはこいつが好きだったのだ。だから、この一年が夢幻だったなんて、到底思うことは出来ないのだ。
 既に熟睡している弟の、足の裏を指で弾く。眠りながらも面倒そうに眉を動かすその仕草も、やはり弟だった。

 海には、よく家族で出かけた。電車で数駅揺られれば、そこそこ静かで、そこそこ賑やかな海水浴場があったからだ。陽の光は全てに平等に降り注ぎ、水面をきらきらと輝かせた。おれと弟は何度も泳ぎの競争をして、弟はその度に、目が痛いと泣いた。砂浜に城を建て、足の指を砂に潜らせて遊んだ。浅瀬で水を掛け合ったり、ヒトデやカニを見つけて追いかけたりした。海は身近な遊び場で、だから弟は毎年、夏になると釣りに出かけるようになった。
 一年前のあの日、おれは珍しく、それに同行しなかった。アルバイトがあったからだ。大物が釣れると良いな、と声を掛けた背中が、遠ざかっていくのを見送ったことを覚えている。
 弟が帰って来ないので、父さんと母さんは半狂乱になってあちこち探し回った。真面目な高校生である弟は夜遊びなんてする筈がなかったし、何の連絡もなく帰って来ないなんてありえなかった。しかし何の情報もないまま一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。ひと月が過ぎたころ、弟とよく似た人物が海に落ちるのを見たかもしれない、という目撃情報が家に届いた。それからやはり何の進展もないままに半年が過ぎ、そして今日だ。
 最初のころは、玄関のドアが開くたびに、弟ではないかと思って、待ち受けていた。でも、半年も過ぎれば、そんなことはもうないのではと、身体が諦めを覚えてしまっていた。だから、今日も、そんなことはあり得ないと。
 思ったところに、弟が帰って来たのだった。
 この一年間、おれは海を見られなかった。テレビでも雑誌でもネットでも、海が映ると目を背けたくなった。海が悪いのではない、それは分かっている。弟が帰って来ないのは、何のせいでもないのだ。
 弟のいない一年間、俺は、足の届かない海原で、もがいていた。太陽ばかりが眩しく目を刺した。時おり頭から塩辛い波を被り、そのとき垣間見る水中は、ひたすら暗く、恐ろしかった。弟が、きっとそこにいるのだと思った。きっとそこで、おれが来るのを待っているのだと。
 けれど、おれはその中へ潜ることが出来ない。

 目を覚ましたとき、弟のベッドの上には誰もいなかった。ああ、そりゃあそうだよな、あいつが帰って来たなんて夢だったんだろう。そう思いながら立ち上がって、広げられた釣り道具に躓く。頭が、再び混乱する。
 居間から楽し気な会話が聞こえてくる。まさかな、と思いながら覗くと、そこには両親と会話する弟がいた。
「あ、ようやく起きて来た。ほらお兄ちゃん、夕飯出来てるよ」
 母さんがこともなげに、おれを呼ぶ。え、そんなに普通で良いのか。一年間いなかった息子が突然帰って来たのに、そんなに普通で良いのか。
 戸惑うおれに、家族は不思議そうな顔を向ける。
「どうしたの?」
「え、いや、」
 食卓には、これといって変哲のない、普通のメニューが並んでいる。行方不明だった家族が帰って来たからご馳走になりました、という風でもない。席に着き、箸を動かしながら、その会話に耳を傾ける。
「海、涼しくて良かったよ」
「それは良かったね。でもボウズだったのは残念」
「はは。また明日でも行って来るよ」
 一年間どこで何をしていたの、という話ではない。まるで、今朝出かけて昼に帰って来た人との会話だ。訳が分からないままに、口に入れたものを飲み下していく。自分が今、何を食べているのか、さっぱり分からない。
 夕飯は終わり、父さんは風呂へ、母さんはテレビ番組を見始め、弟は部屋に引っ込んでしまった。おれも暫く自室の椅子に座って考えたが、考えても、さっぱり分からなかった。
 おれが変なのか。弟が一年前に行方不明になったなんて、本当におれの夢に過ぎないのか。
 考えても考えても分からない。もし全て夢だったのなら、おれはこの一年間、本当は何をしていたのか。弟を失って、うまく呼吸が出来ないままに生きていた記憶しかないのに。
 落ち着かなくてどうしようもないまま夜になり、朝が早い両親は、すぐに眠りに就いた。まだ十二時にもなっていないのにしんと静まり返った家の中で、おれはもうこらえきれなくなって、弟の部屋をノックした。むう、という唸り声が聞こえたので、中へ入る。電気をつけたままベッドに寝転んでいた弟は、そのままの姿勢でおれを見た。
「どうしたのさ」
「別に、どうもしないけど」
「へえ」
 まったく気にした様子もなく、弟はあくびをした。眠ろうとしていたところだったのかもしれない。おれは床に座りベッドに背を預けて、横たわる弟の足元に頭を載せた。
「蹴るよ」
「蹴るなよ」
 へいへい、と呟いて、弟は部屋の電気を消した。本当に眠るつもりのようだ。寝つきがいいのはよく知っているので、慌てて声を掛ける。
「なあ、変なこと言っているとは思うんだけどさ、本当にお前、一年前に海に落ちたんじゃないのか」
 ぎし、とベッドが鳴り、弟は寝返りを打つ。
「ええ? 兄ちゃんさ、それ何の冗談なの。変なの」
 笑いもせず、眠そうな声が言う。眠い人間の高い体温が頭に感じられて、おれは危うく泣きそうになった。
「‥‥‥いや、良いんだ」
 少なくとも、今、この瞬間は、これだけは、本当だ。それは分かる。それは確実だ。
 弟はもう、何も言わなかった。静かな寝息が、海面に浮かぶおれの耳に、さざ波のように届いた。いつの間にか傍にいた弟と、二人きりの海原で、数年ぶりに泳いだ。太陽が眩しく弟を照らし、波が心地よくおれたちを包んだ。水中は明るく広く、何も恐くなかった。
 一年ぶりに心の底から笑いながら、おれはもう一方の体で、弟の部屋にある時計の秒針を感じた。もうすぐ十二時になる。海の日が終わる。
 口の中が塩辛い。目元がひりひりする。楽し気に泳ぐ弟の姿が、どんどん遠ざかる。頭の上が、冷えていく。

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