見出し画像

幸福の香り(短編・天使と悪魔シリーズ26話)

【天使のことが大好きすぎる悪魔と、彼に惹かれていく天使の、見た目BL小説群の26話目です。(これまでの話はマガジンをご参照ください)】

 人間世界はいついかなるときも決して平穏にはならず、悪魔の繁忙期は永遠に終わらない。しかし、そんな激務の合間を縫って、俺は天使の自宅へ顔を出すことにしていた。白く明るい部屋が落ち着くなんて、悪魔仲間と交わす冗談みたいだ。
「来てくれて嬉しいよ」
 いつ行っても、天使はそう言って俺を迎える。迷惑にならないタイミングを測って来てはいるが、それでも頻繁過ぎるほど頻繁に訪れる俺を、まったく煙たがることはない。
 俺のためだけにコーヒーを入れようとキッチンに立つ、その華奢な肩に腕を回し、輝く金髪に顔を埋める。陽光の中で華やかに咲く、花の香り。
「疲れてるのか?」
「ああ。お前のためなら、いくら働いても疲れたりしないんだがな。そうでないから、仕事はつまらない」
「はは。悪魔の仕事が天使のためになったりしたら、それこそ天地がひっくり返るよ」
 面白そうに笑い、天使は、俺の手を自身の頰に当てた。
「私がお前の癒しになれるなんて、嬉しいよ」
 幸福感に思わず意識が飛びかけたが、どうにか持ち堪える。目眩に似た感覚を抑えようとしていると、天使が少し顔をこちらに向けた。至近距離で、その長い睫毛が俺の顔につきそうだ。
「今日はなんだか、いつもと香りが違うな」
「香り? ……ああ、そう言えば、仕事で人間に会うから、イメージ作りのために香水をな」
 答えながら、俺の香りを天使が覚えているという事実に、またも足元がふらついた。天使は「ふうん」と頷いて、それから俺の胸元に顔を近づけ、くんくんと嗅いだ。
「これは花の香りかな」
 正気を保つのが困難だ。こいつ自身は全くの無邪気なのが、余計に毒だ。この後にまだ仕事が控えているのが、ひたすらに残念でならない。
 天使はようやく俺から離れ、俺の目を見上げた。
「私も、同じ香水が欲しいな」
「天使サマが香水? 必要ないだろ」
 お前は十分に芳しい。
 しかし、天使は首を振った。
「同じ香水を身につければ、離れていても、お前を感じられるような気がして……」
 思わず、目元を覆って壁に寄りかかる。世界が揺れて、まともでいられない。
「だ、大丈夫か」
「心配無用、ただの幸福酔いだ」
 努力して息を整えて、それから心配そうな天使の髪を撫でる。
「香水なんて必要ない。それが必要になる程、俺はお前から離れたりなんてしないからな」
 それに、お前は気がついていないのかもしれないが、俺の匂いは少しずつ、お前に染みついている。そして、お前の香りも、恐らくは俺に……。
 天使は、ふっと微笑んだ。
「確かに、そうだな。私も、お前と離れたりはしないもの。それに」
 再び回り始めた世界で、とどめとなる言葉が聞こえる。
「香水より、私はお前の吐息の方が好きだからな」

いただいたサポートは、私の血となり肉となるでしょう。