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55日間外出禁止中、シェフの夫は何を作っていたか。 〜4月10日 仔ヤギの半身肉

 外出禁止開始から25日。ひたすら単調な毎日が続いていた。夫はレストランが閉鎖され一時失業中、フリーランスのわたしは世間の例にもれず仕事が減り、日々呆然としていた。特にイベントもない。気の抜けた時間の連続は、いろんな感覚を麻痺させていた。

 お昼を食べ終わりデスクでぼやっとしていると、玄関のベルが鳴った。外出禁止中、予告なく訪ねてくるのはアパート内のひとだけ。そして予想通り、管理人クリスティーナだった。

 扉を開けると、クリスティーナはひそひそ声で「ここに置いとくから」と言い、玄関マットの上にこんもりした緑の束をバサッと置いた。4月当時、フランスではマスクが一般に普及していなかったので、ひそひそ声で話して唾を飛ばさないように、と彼女なりに気遣ってくれたのだと思う。わたしは条件反射的に「ありがとう」と言い、クリスティーナはにこやかに帰っていった。オリーブの枝だった。なぜ説明もなく置いていったのか、これはなんなのか。正直困惑した。

 あとで調べてわかったのだが、彼女の出身地ポルトガルではイースター(フランス語でパック)にオリーブの枝を家で飾るのだそうだ。久しぶりにやってきた、季節の風物詩。コロナの外出禁止さえなければ、フランスでも華やかにイースターを祝っているところだったのだ。そんなことさえ、忘れていた。

 イースター気分を盛り上げようと、さっそく近所のジル・マーシャルにパックのお菓子を買いに行った。ここは、パリのお菓子好きならば知らない人はいない有名パティスリー。外出期間中も営業しており、しかもうちの家から外出許可範囲内(半径1km)にあったため、大変お世話になった。アルザス地方で主に食べられるイースター菓子「アニョー・ドゥ・パック(羊の形のイースターのケーキ)」をみつけ、いちばん小さい、かわいい羊ちゃんを買った。

 お菓子を抱えてほくほくしながら歩いていると、夫が「今年はどこにしようね?」と言う。他国同様、イースターにはチョコレートを食べるため「チョコレート買うの?」と聞くと、「いや、羊の部位」と。そっちかい!と、つっこんだ。フランスではイースターのごちそうといえば、羊の肉なのだ。さっそく、最寄りの肉屋へ向かった。

 ひとりで肉屋に入っていった夫が、しばらくして大きな包みを持って出てきた。柔らかくて上品な味のアニョー・ド・レ(乳飲み仔羊)があればいいな、と言っていったのだが、「なかったから、乳飲み仔ヤギ(シュヴロー・ド・レ)の半身買ってきた」という。

 実はこの時まで、フランスでもヤギ肉を食べるとは知らなかった。ヤギ乳のチーズやヨーグルトは普通に店で売っているので、乳を食べるためだけに存在する、平和な家畜だと思っていた。それが、幼い段階から食肉にされてるなんて。なんとも可哀想だが、せっかくなのでありがたくいただく。というか、もはや羊でもないので、イースターはまったく関係なくなった。

 仔ヤギとはいえ、半身ともなるとけっこうな量がある。この日から、総勢2名しかいないわが家では、子ヤギ食べ尽くし祭りを開催。ブレゼ(蒸し煮)、ロースト、内臓も使ったラグーのパスタなどなど、来る日も来る日も食べ続けた。

 ヤギ肉は臭いという思い込みがあったが、子ヤギだからかクオリティが高かったためか、味にクセはなく繊細で、肉質もしっとり柔らかかった。おそらく1週間ほど食べ続けたのではないだろうか。夫がスパイスやソースで工夫をしてくれたので、食べ飽きることもなかった。

 最後のローストを口に含んだとき、ようやく、わずかにヤギらしいクセを味の中に見つけた。この先、自分は何年生きるかわからないが、こんなに毎日ヤギ肉を食べ続ける日々はないのだろうなあ、とほんのり野性味のあるヤギの香りを口いっぱいに感じながら、しみじみ思った。


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