潔くなんてないと思う。
うちの庭にある桜の木は限りなく白に近い花を咲かせる。一滴の赤さえも入っていないんじゃないかというくらい一面の白。ちゃんとサクランボができるので、サクランボの木と言った方がいいかもしれない。
アメリカンチェリーみたいな実は熟れるとどすぐろい赤なんてもんじゃなくて、ちょっとだけ赤い光が溶け込んだ夜の空みたいになる。
私たちがこの家を借り始める頃にはもう古い木の様相をしていたから、今はさらに年を取った高齢木。
冬の間に太い枝が一本折れたらしく、うちの庭とお隣の庭の間にそれが落ちていた。なんとなくまだ生々しいその枝はちゃんと枝先の細い部分も持っていて、外が少しずつ暖かくなるのに答えるように枝先のつぼみの部分に微かな緑色の気配がし始めた。いずれは適当な長さに切って乾燥させて薪にするつもりだけど、とりあえず枝先だけ切って花瓶に入れた。
花瓶の中の水は次第に少しずつ赤みを帯びた。体内に残った数滴の血が溶け出しているような深刻さ。薄気味悪い感じがする一方で、自分の中に親近感というものが沸いた気がした。
一つのつぼみだと思っていたものはつぼみの集合体で、複数に分かれた緑色の包みが実際のつぼみになった。緑の中から顔を出す花弁の先っちょは、赤く膨らんだニキビに溜まった白い膿のようでもあった。これから咲くであろうすっきりと美しい桜の花とはかけ離れた、グロテスクな生命。花瓶に生けられた枝であるせいかもしれない。死が前提の、その枝にとって最後の花であるせいかもしれない。
ここで私は、なぜか三島由紀夫のことを考える。
私は彼の文章が好きだ。ある状況の中から何を取り出してどう書いて、何について書かないでおくか。そういうのに関する三島由紀夫の感覚が好きだ。そんなのここで使ってしまったらこの先どうするの、なんて心配になるくらい、大発見級の表現がぽろっと落ちていたりする。でも、そんな表現がポンポン出てくるから心配はいらない。
私の先生だったディーンスト教授が絵について、「何が描いてあるのかは、特に問題ではないんだ。大切なのはどう描いてあるかなんだ」と言っていたのを思い出す。私は三島由紀夫という人物は未だによくわからないし、登場人物やストーリーに共感することもほとんどない。以前は極右の人だと思っていて警戒していたし、実際にそっち方面へ人々を導く危なさを持っていると思う。それでも彼の文章は(何について書いてある場合でも)美しい。それは本当に否定できない。
それに、敏感さとそれをかみ砕く行為と自己批判があれだけ濃縮された人の中には、一言に「極右」とか「国粋」とかで片づけてしまえない、もっとごちゃごちゃとしたいろいろが詰まっていたのではないかと思えてならない。一つのイデオロギーに向かって走れる盲目さを、彼のような人間は持ちうるのだろうか。
ここでちょっと気になるのは、外国語訳を読んで「ミシマはすばらしい」という人は何をどう感じてそう言うのかということ。言葉の感覚や文化の近い韓国語はまだ可能かもしれないけど、ドイツ語とか英語とかになった場合、三島由紀夫の文章の何がどこまで翻訳できるのか。例えばある比喩的表現で使われた自然現象のうしろに隠れたほのかな「あたたかな空気」みたいな、文章の表面や辞書的意味からは拾えないニュアンスなんかは、どの程度伝わるのか。そういうのがなくなればなくなるほど、文章はストーリーに集約されていきがちだと思う。実際に外国語訳を読んだことはないから、今度試してみる必要がある。作家とは、ずいぶん酷な仕事なのかもしれない。
さて、話がずいぶん反れたけど、ここで桜の枝に戻りたい。
私は冬に折れた桜の枝が花をつけたことについて、グロテスクだとさえ思った。生への執着、生殖への執念。日本には「桜の花のように潔く」という表現がなかったっけ。
潔い死を望んで実行した三島由紀夫は、桜の花に自らを例えたことがあったのだろうか。彼のことだから、なかった確率の方が高そうな気はする。そうだといい。
桜の花は、別に潔くもなんともない一つの生命体だ。花が咲いた後は大量の茶色い花弁が地面に落ち、雨が降ればぐちゃぐちゃになり、通りすがりのあらゆるものにくっついて歩く。ちゃっかりサクランボをつける木は日本にはあまりないかもしれないけど、そうなったら「潔く」なんて全然いかない。甘い果実から滴る真っ赤な果汁は人を、鳥を、虫を魅惑する。熟れすぎてイースト系のカビに覆われて発酵を始めるのもあるし、下に落ちて腐るのもある。花が終われば紅葉した葉っぱが落ちきるまで、下は掃きっぱなしだ。それは赤ちゃんのおむつを替えるのに似ている。さっぱりしてはいっぱいになり、掃いてさっぱりしてはまたいっぱいになる。それが十分なのだと思う。