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ドキュメンタリー

ドキュメンタリー

「密着24時間」「真の姿にせまる」「舞台裏の素顔」…わたしがドキュメンタリーときいて思い浮かべるのはそんな言葉たち。なんだかどきどきしてしまう。
辞書には「実際にあった事の記録を中心として、虚構を加えずに構成された映画・放送番組や文学作品など」と書かれている。
つまり客観的な事実をそのまま記録したものではなく、制作者の「意図や主観に基づいて」構築される『作品』である。


話は変わってここ1年でわたしは、わたしたちは日常があたりまえではないことを感じている。休日はおうちで楽しむ、ひととの距離はゆったりと、花粉症じゃなくてもマスクが必須、が今のあたりまえ。窮屈さやもどかしさを超えて、慣れたくなんかないのに この生活に慣れてきてしまった。そしてふと、足りないものではなくて今の日常に目を向けてみたら、今あるものだってあたりまえじゃないことに気が付く。
2年前に生まれた小さなひとは毎日アップデートされて歩くし話すし、1年前とはちがういきものみたいだ。

毎日のように写真を撮り、動画を撮り、スマフォの容量はいっぱい。
成長を記録し、大切に保管していつでも見返せるアプリも入っている。
「でも」と思った。

いまこんなにも愛おしいと思っていること。
はじめて出逢った日に一生大切にしたいと抱きしめたこと。
マスクを着け、気軽に旅行もいけない世の中でもわたしたち家族はちゃんとしあわせだということ。
わたしはちゃんと覚えていられるだろうか。

小さなひとが大きくなったとき、わたしのなかに残る記憶が「コロナだったなあ」となるのはいやだと思った。

子育てをしていると「いま」が今しかないことを、それは一瞬で過ぎていくことを、身をもって感じる。
昨日は使えなかったフォークでいま美味しそうにぶどうを食べている、みたいな。
大人になれば箸も使うし、靴も左右ちゃんと履けるし、眠すぎて泣くことはなくなるし。成長のすべてを記録したいとは思っていないけれど 反抗期に自分をなぐさめるため、老後に夫婦で楽しむため、あわよくば成長したきみに届けばいいなと思って、「いまを残したい」と思った。気持ちを添えて。

そしてこの動画のことを思い出した。

これはドキュメンタリーだ。
記録ではなくて、記憶。

当事者じゃなければちょっと退屈さを感じる「ありふれた日常」
第三者のためではなく、自分のためのドキュメンタリー。

なんで残したいと思ったのか
なにを届けたいのか
だれのために?

目的やコンセプトは定まっていなかったけどことみさんにメッセージを送って
「撮ってもらえますか?」ときいたら「喜んで」と言ってもらえた。

オンラインで打ち合わせをして
「残したい理由」や「残したいもの」をちゃんと引き出してもらって
その時点で、このひとにお願いして良かった と思っていた。

だってドキュメンタリーは「製作者の意図や主観で」作られるものだから。
ただキレイな映像を残すだけなら技術を持ったひとは他にも知っているけれど
意図を持って撮影・編集してくれるひとにお願いしたいと思った。
主観で撮りたいものが一致するひとに残して欲しかった。
だから、ことみさんにお願いした。


撮影は引っ越しの日とその翌日。
新しい家での生活がスタートする日。
ばたばたしていてカメラを気にしたりかっこつけたりする余裕もないから、素が出ると思って。


はじめて直接お会いした時、ことみさんはもうビデオを回していて
段ボールの山の間から顔を出して声をかけてくれた

動きや表情を指示されることもなく
引っ越し作業を進めていく私たち

保育園のおむかえの前に夜ご飯の買い出し。
小さなひとはオンラインで顔を合わせたことを覚えているのか
ことみさんの人柄なのか
人見知りもせずナチュラルに撮影に参加する

「夜ご飯をみんなで作って食べる」
「ご飯の後に 夫とわたしの子供のころのアルバムを見ながら想い出を振り返る」
このふたつだけ、打ち合わせの時に決めていた。

新しい家でのはじめての食事、ということ以外は
いつもの家族の食卓。引っ越し祝いで豪華版だけど。

2歳児がいると、お米は宙を舞うし
おしぼりは手放せないし
落ち着いておしゃれな料理を食べることは不可能に近い。

笑い声とたまに醤油をこぼされたわたしの悲鳴
そんな食卓もきっと今だからこそ。


翌日
夫は仕事に行き、わたしと小さなひとと
引っ越しの手伝いに来てくれていた母の3人、近所の公園にでかける。

草をかき分けテントウムシを探したり
遊具に足をかけたり
いそがしそうに動き回る様子に思わずわたしもカメラを向ける。

遊び疲れて帰り道はおひるねタイムに。
一息つきながら
いまの気持ちを言葉にした。
母はこんな風に思っていたのか、
わたしの大切なものはこれだったのか、
はじめて気が付く想いに少し照れくさくなる。


目覚めて ことみさんが帰ってしまったことに気が付いた小さなひとは
しばらく寂しそうにいじけていた。


1ヶ月後、ことみさんから連絡をもらって
「10分以内のつもりが、25分になっちゃいました」と言われて笑った。
その言葉だけで、どれほど「意思を持って」編集してくれたのかがわかる。


テレビ番組で流れるドキュメンタリーは解説が入ったり
カメラマンやディレクターの声が入るけれど
この映像はわたしたち家族の声だけで作られていて、リアル。
真空パックに詰めて将来に持っていくように「いま」を残すためだけの映像。
映っているのは「いつもの」わたしたちで
何にも特別じゃなくて、ありふれた日常で。
そこにしっかり感じる「撮影や編集時の意図」
やっぱり、間違ってなかったなー。ことみさん、ありがとう。

撮影・編集していただいた映像は一番下にリンクを貼っておきます。

いまを残すことが、将来を豊かにするか、辛いときに支えになるか
それはわからないけれど。

だけどきっとこの瞬間を懐かしく思う日が来る。
それは今よりしあわせになっているとかいないとか
そうゆうことに関係なく。
「いつかくるその日に届けられるようにこの映像を撮ってもらって良かった」
映像をはじめてみた時のわたしの感想。

誕生日、成人式、結婚式…みたいに名前がなくても
それぞれ節目になる瞬間があると思う。

公園デビュー、ランドセルを買いに行く、跳び箱を初めて跳べた、初任給で買い物する、お店を開く…
すぐに日常に溶け込んでしまう わくわくやどきどき。
そして何もない日常に感じるちいさな幸せ。
お風呂上がりのアイスクリームや 休日のお昼にならぶ彩りゆたかなジャムの瓶。
そうゆう瞬間の延長に
誕生日や結婚式と呼ばれるハレの日があると思っている。
だから日常と特別な日とどちらがより大切かではなく
どちらも大切にしたい。


写真でも自分で撮影した映像でもなくて
家族の日常のドキュメンタリーを残すこと。

聞いたこともない
思いもつかないことかもしれない。

ひとの映像をみても価値は伝わりづらいと思う。

でも、大切なひとたちにおすすめしたい気持ちでいっぱいです。
ことみさんが愛情たっぷりに仕上げてくれた映像はこちらから↓


25分程の映像なので
何となく気になるところだけをつまんでいただくか
映っているのが自分や大切なひとだったら…と
想像しながら見ていただければと思います

世の中ビデオグラファーさんや映像編集ができるひとはたくさんいて
こうゆうドキュメンタリーを撮っているひともなかにはいるかもしれないけれど
興味あるな、でもどうしたら良いかわからないな、というひとがいたら
ことみさんとお繋ぎすることもできます。

ただ日常を残すのではなくて、
撮影をきっかけにちょっとしたイベントや節目にしたいな、
ということであればプロデュースも喜んでお手伝いします*

○○記念日の例
お誕生日
結婚記念日
はじめてのおつかい
久しぶりに家族が集まる日
何でもない日おめでとう
仲直りの日
よちよち歩き
大好きな公園
結婚前夜
旅行
お付き合い記念日
初ビール
などなど…考えられることは山ほど。


【最後にことみさんへ】

なんども何度も伝えたけれど
心温まる日常を残してくれてありがとうございます。
今しかない「いま」をことみさんに残してもらえてこと
わたしたち家族にとってかけがえのない記憶になりました。
写真よりもハードルの高い「映像」。
届けられるものの違いをもっと伝えていきたいと感じました。
結婚式でも、それ以外のハレの日でも、日常でも
映像を残すことの価値を、もっと伝えられるように
また一緒に、タコスを食べながらお話させてくださいね。

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