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私は承認欲求ウーマン

“バカッター”
遡るとこの言葉が出てきたのは2013年頃。
飲食店や小売店のアルバイト従業員がSNSに不適切な行為を撮影してTwitterに投稿する。
その投稿が拡散され、炎上していくというものだ。
文字だけや画像を主体としたTwitterから、YouTubeやInstagramといった動画SNSが流行しだしてからは“バカスタグラム”と言われたりするらしい。
こういう時によく見かける専門家の意見として“ネットから身を守るための教育”が機能していないというものがある。
一度ネットに拡がってしまえばとんでもない速さで拡がるし、回収するのはほぼ不可能に近い。
私が学生だった頃から言われてはいたことだったが、深く学ぶ機会はなかったしインターネットやSNSの世界は思っている以上に進化が止まらないので追いつくのがやっとというところもある。
ただ、私はこの問題の本質はそこではないのかなと思っている。

ある日私はコーチングの勉強会で“過去にあったことで今も影響を及ぼしていること”というテーマで練習をすることになった。
私がクライアントとなり聞かれる立場となった時、お題を何にしようか少し悩んだが出てきたのは“カフェイン”だった。
私はコーヒーが飲めない。
全く飲めないわけではないが、ブラックコーヒーは3口ぐらいが限界。
コーヒーを牛乳で割る時の比率は1:9ぐらいで砂糖もしっかりいれる。
コーヒーをしっかり飲む人からしたら信じられないそうだが、私はカフェオレを飲んだだけでも夜眠れなくなる。
紅茶や抹茶は大丈夫だがコーヒーは弱い。
学生時代にクラスの頭のいい同級生が、夜20時ぐらいに寝て朝3時に起き、そのままずっと勉強したままでテストに臨むと聞いて自分も真似したことがある。
慣れないことをしたからか、いざ学校に向かうという時間に襲ってくる眠気。
テストどころではないぞと、家にあったコーヒーをブラックで飲んだ。
そのまま登校して、テストに臨んだものの体調がすこぶる悪い。
動悸がするし、手が震えるし、気持ち悪い。
テストを終えてそのまま保健室へと直行することになった。

「なんか変わったことした?」
「……ブラックコーヒー飲みました」
「多分、あなたカフェインに弱いのよ」
「そうなんですかね」
「とりあえずお水飲んで、カフェイン薄めましょ。あとはしばらく寝て」
「……はい」
ちゃんと調べたことは無いが、恐らく私は体質的にカフェインに弱いんだと思う。

ただ社会人になるとコーヒーが飲めない私は肩身の狭い思いをしたことが多々あった。
会食に行くとなぜか食後にはコーヒーが付いてくるし、研修会に行った先で用意されているのはだいたいコーヒーのことが多かった。
「すいません、コーヒー飲めないんです」
せっかく用意してもらったのものを、そう返さざるを得ない後ろめたさ。
「え?コーヒー飲めないの?」
「カフェオレで夜眠れなくなるなんて子供やん」
なんて言われると
「いやー、そうなんです飲めないんですよね」
と返しつつも私のガラスの心臓は崩壊寸前ぐらいにヒビが入っていた。
妊娠を機にカフェインを断つ生活を送っていた私が久しぶりにコーヒー牛乳を飲んだ時、昔体調を崩したときぐらいに動悸がした。
元々カフェインに弱いであろう私の身体は、妊娠から授乳を終えるまでのカフェイン断ち生活を経てさらにカフェインに弱くなっていたのだ。
ただコロナ禍はあまり人と会うこともなかったし、集まって会合をするということも少なかったのでコーヒーを飲んでいると見せかけて、中身はリンゴジュースでも問題ない。
だが、この春から色々元に戻る。
オンラインではなくリアルで会う機会も増えてきた。
お茶を飲みながらとか、出先で用意されていることもあるだろう。
「カフェイン耐性を鍛えた方がいいのかな」
と薄々感じていた。
過去に体調を崩したこともあるが用意されたものを断るのは相手に悪い印象を与えないかが気になる。
「相手に悪い印象ってどんな印象?」
ペアでコーチ役となった相手が私に聴く。
「悪い印象……、こいつコーヒー飲めないんだとか」
「他には?」
と聞かれさらに考える。
“こいつはコーヒーが飲めない”
と思われることが自分にとってどんな影響があるのか。
「……お子様扱いされたくないんだと思います」
ぱっと私から出てきた言葉だ。
そう。
私はカフェインに弱い。
それは体質だしどうしようもできないことだ。
だが一番嫌なのは、自分を低く見られることだった。
「小田さんにとっての大人ってどんな大人なの?」
と聞かれさらに考える。
「スーツを着て、ヒールを履いて、髪をなびかせながら颯爽と歩く人。片手にはスタバのコーヒーを持って」
ぱっと浮かんだのはそんなTVや雑誌に出てくるようなバリバリキャリアウーマンな女性。
「そっかそっか。でもさ、その持ってるスタバのコーヒーの中身ってほんまにコーヒーなんかな?」
「というと?」
「中身牛乳かもしれへんよ」
「あ」
「コーヒー飲めないけどどうしようってもじもじとしてるよりも、堂々と私コーヒー飲めないんでってはっきり自分の意見を言える方が私には大人のように感じるけど」
そう言われてハッとした。
そう、私は大人の女性に見られたいんだ。
馬鹿にされたくないんだ。
子ども扱いされたくないんだ。
相手になめられたくないんだ。
しれっと何でもできちゃう人だって思われたいんだ。
この練習会ではそんな心の奥底にある気持ちに向き合うことになった。

そう考えると昔から私は欲の塊人間だ。
両親曰く、物心つく前から外では品行方正。
「おりこうさんね」
と言われることに快感を覚えていたようだ。
表彰されるとか、自分の書いた絵が展示されるとかクラスの終わりの回で褒められるのは快感だったし他人によく見られること、ちやほやされると悪い気はしない。
ただ、人に努力しているところを見られたくない。
見せたくない。
あいつ、必死にやってるんだと思われたくない。
そんな素振りを見せないように努めていた。
何事も器用にこなしていくパーフェクト人間だと思われたい。
まさに承認欲求ウーマンだ。
なんて欲深い人間なんだろうとつくづく思う。

人間性心理学の生みの親とも言われる心理学者アブラハム・マズローは“欲求5段階説”と言う理論を提唱した。
人間は5つの欲求で構成されているというものだ。
1つ目は食事や睡眠などの“生理的欲求”
2つ目は危険な環境ではなく安全に生活できるという“安全欲求”
3つ目は仲間内や集団でのつながりや役割を求める“社会的欲求”
4つ目は人との関わりの中で評価や尊重されることを求める“承認欲求”
5つ目は自分の能力を発揮したいという“自己実現欲求”
となっていており、下から順番にピラミッドのようになっている。
マズローによると人間は1つ目を満たすと次は2つ目を満たしたくなり、2つ目を満たすと3つ目を満たしたくなりと、下にある欲求を満たすと上にある欲求を満たしたくなる傾向にあるという。
日本は平和な国だ。
よほどのことがなければ衣食住に困ることもないし、つねに命の危険との鳴り合わせのような環境でもない。
生理的欲求と安全欲求は満たされているという人が多いように思う。
そしてこの
4つ目の承認欲求。
これは子供から大人までみんなが持っているものだ。
かくいう私の2歳の息子も小さいながらにも
「かっこいい!」
と言うワードに弱い。
家では納豆とヨーグルトしか食べない偏食ぶりだが、保育園で先生や友達の前で野菜を食べ
「かっこいい!」
と言われると良い気になってどや顔をしながらおかわりを求めるらしい。
さらに承認欲求は他者承認という低いレベルのものと、自己承認と言う高いレベルのものがある。
自己承認は“自分で自分のことを認められるようになりたい”というもの。
「もっと自分を高めるにはどうすればいいんだろう」
「もっと自分を好きになりたい」
と考え、さらに技術や能力を磨くことで欲求を満たすものだ。
修行や勉強などの自己投資はこれに近しいものもあるかもしれない。
対する他者承認は“他人からよく見られたい”というもの。
他人から褒められたり、尊敬されたり、認められたり、注目を浴びたりすることで欲求が満たされる。
ただこればかり求めすぎると、他人の眼ばかり気にするようになり自分を見失い、トラブルを引き起こすことに繋がる。
よく似たもので“自己顕示欲求”というものがある。
「人気者になりたい」
「大勢の人から注目されたい」
「自分の存在を周囲にアピールしたい」
というように、他人の注目を集めることで自分の欲求を満たすという自分中心なものだが、これには他人の評価は含まれていない。
他者承認はそこに“他者から自分の存在を認めてもらうこと”を求めているのだ。
だがなぜ、人間はそこまで他者に認められたいんだろうか。
こんなに欲の塊のような人間は私だけなのかなとも思ったのだが、案外こんな現代人は多いそうだ。

まず時代背景が変わったというのもある。
かつては有名な大学を卒業して、上場企業メーカーに就職して昇進し、安定な生活を送る。
これが日本社会ではある種のステータスとなっていた。
だが現代は大企業に就職したから安定ということは無いし、実際新しいものを提供する企業や実力のある個人が企業の規模に関係なく活躍している。
また肩書や地位ではなく人間性の部分が評価されるようになってきた。
そしてスマホ時代と言われる現代。
子供から大人までが当たり前のようにSNSに触れている。
共通の趣味や同じ目的の人たちと繋がり、自分と同じように考えている人や自分の悩みに共感してくれる人がいると自分の存在が認められていると実感する。
さらに個人の発言が取り上げられ、時には“バズる”ということに繋がる昨今は
「この人は影響力がある」
と他者から評価されたい欲求に依存しやすくなり、SNS上での評価に振り回されやすくなる。

小さい頃はただそこにいるというだけで注目を浴び、構ってもらえる。
笑ったり、ハイハイしたりするだけで大人から
「すごいね!」
とたくさん褒めてもらえる。
大人があいうえおポスターを見て声に出して読んでも、ただの変わり者としか見てもらえないかもしれない。
だがひとたび2歳児が指を指しながら読むと手を叩いて褒められる。
自分と言う存在を認めてもらえるのだ。
成長していくにつれ、結果を出さなければ評価されなくなる。
大人になれば出来て当たり前。
出来なければマイナス評価を受け存在そのものを否定されてしまう。
常に評価を意識しすぎて自分の能力をうまく発揮できず、自分そのものを殺してしまう。
最近自分らしさや、自己肯定感というワードを耳にするようになったのはそんな背景もあるんだろう。
昔に比べれば、他人からよく見られたい、いい評価を得たい気持ちはだいぶ落ち着いた。
だが、そもそも自分が承認欲求の塊なんだということを自覚していない人は多い。
そして行き過ぎてしまうと回転寿司での迷惑行為や侮辱行為など最終的に他者に危害を加えるような行為に及んでしまうんだと思う。

私は承認欲求ウーマンだ。
これは一生無くならない気がしている。
ただもう他人の目を気にするのは卒業した。
これまでも他人に嫌われたくないから、好かれたいから他人の欲求に答え無理をしたこと数知れず。
私は自分に自信がなかった。
だからこそ“パワフルな女性”であると見せてきた。
だがこれからは自分が心から望むことをしたい。
自分が本心から望むことと、他人が自分に期待することはしっかり分けて。
そして自分で選択したんだから、そこにはしっかり責任を持つ。
人生は1度きり。
どうせなら自分で
「よくやった!」
と盛大に褒められる自分でありたい。


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