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①社会主義とバレエ (革命〜ソヴィエト政府の成立)

前回の記事で最後に挙げた「なぜソヴィエトは社会主義思想と相性の悪いバレエを、わざわざ文化冷戦の一手段として採用したのか」という点について、当章より述べていきたいと思います。
その裏には、革命によって生まれたソヴィエト政府の抱える苦悩と、様々な試みがありました。

1. ロシア革命と帝国バレエ

ソヴィエト政府とバレエの繋がりについて解き明かすため、まずはロシア・バレエの歴史を追っていきたいと思います。☺︎

前回述べたとおり、バレエはイタリアで生まれ、フランスにて宮廷文化として発展し、その後西洋化を推進していたロシア帝国において、皇帝権力のもとで大成しました。
「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」などの名作も、まさに当時の帝国繁栄の象徴的存在でした。

しかし、その地位を大きく揺るがす出来事が巻き起こります。
ロシア革命です

「ロシア革命」:それまでの帝国独裁体制を排除し、最終的に新しく社会主義国家が建設された動き。まず二度の革命を経てロマノフ朝が倒れ、自由主義の臨時政府が設立された(二月革命)。しかしその後、レーニン主導の社会主義者勢力(=『ボリシェヴィキ』)が労働者らの支持を集め、十月革命によって臨時政府を打倒。世界で最初の社会主義政権が誕生した。

皇帝権力と親密な関係にあったバレエは存続の危機に晒されました。
新体制を率いるボリシェヴィキや、それを支持する労働者達にとって、貴族文化であったバレエなど、ほとんど縁のないものだったのです。
こうした状況下で生き残るためには、バレエは新体制下での新しい役割、居場所を見つけ出す必要がありました。


ここで大きな役割を果たしたのが、ソヴィエトの初代教育大臣であったルナチャルスキーという人物です。

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芸術を愛し、劇場文化の存続を強く望んでいたルナチャルスキーは、労働者達に劇場のチケットを無料配布し、貴族文化の大衆への普及を試みました。

観客の労働者達はもちろんバレエなど見たことがなく、それが何なのかすらも分かっていない人がほとんどでした。
舞台では『白鳥の湖』などが披露されましたが、観客達はその静かさに困惑し、「演者はいつ台詞を喋り始めるんだ?」「歌ったりしないのか?」と周囲と話し合っていたというエピソードもあります。

チケットの無料配布策は1921 年の NEP(新経済政策)導入を機に廃止されたものの、無償提供された公演数は、オペラとバレエを合わせて9公演(1918-1919年)⇨56 公演(1919-1920 年)⇨86 公演(1920-1921 年)と徐々に増えており、バレエを大衆文化へと移行させる大きな役割を果たしました。


こうした取り組みを通して、バレエの巧妙な動きや華やかさは、確実に労働者達の心を掴んでいきました。
革命の混乱の真っ只中にいる労働者達にとって、社会主義とかけ離れたバレエの世界は、現実逃避の場として機能していたと思われます。

そしてなにより、バレエが労働者たちに受け入れられたという事実は、「バレエはプロレタリアート社会とは相容れない」という批判への反論材料となっていきました。



しかしながら依然としてバレエが社会的に不安定な立場にあることは変わらず、その後もその存在意義についての議論は度々激しく巻き起こりました。

それでも、1919 年にはかつての帝国劇場や一部の私的劇場に公的な地位が保証されるなど、バレエはその消滅の危機から幾度となく逃れることに成功します。

それらは決してただ単にラッキーだったからというわけではありません。
次はその裏にあった思惑について述べたいと思います。


2. バレエの社会主義プロパガンダ化計画

さて、先程功労者として名前を出したルナチャルスキーですが、彼がそのような行動に力を注いだことには裏の理由がありました。

1930年と少し後のものですが、ルナチャルスキーのこんな発言があります。

「・・・たとえ異質な内容であっても、それが我が聴衆を生き生きとさせるほど大きな審美的な力であるならば―自分たち自身の要素を組み入れることで、それ(バレエ)はどれほど強力なボリシェヴィキの武器となることだろうか?」
( Ezrahi, Christina., Swans of the Kremlin: Ballet and Power in Soviet Russia, pp.28-29.)

さて、「強力なボリシェヴィキの武器」とは、何を示しているのでしょうか。


当時のソヴィエトには歴史がなく、文化もありません。

たとえば日本では、歴史とともに「和」という思想が一つの文化として形作られ、日本という国や日本人を象徴する概念の一つとして共有されています。
「和」の概念が表す、集団の秩序を慮る精神や、礼儀を尽くして調和を大切にするという姿勢などは、現在においても、我が国を象徴する美学人々のあるべき理想的な姿として度々語られることがあるかと思います。

しかし当時ソヴィエトという国家には、日本でいうところの「和」のような、国やその国民としてのアイデンティティ(帰属意識)を形作り、体現するような共通のシンボルが不足していました。
成立してから間もなかった、ということに加え、「革命」という成立の起源もそのような状況を作り出した一因でした。革命による「新しい社会の創設」は、ある意味「それ以前の秩序や価値観の破壊」とセットになっていると言えるからです。


「文化」を国家が作る…というと、人工的で不自然な感じがするかもしれません。実際には大抵の場合において、文化というものは政治と繋がりを持っています。(当noteのテーマもそうですね)

というのも国に限らず、1つの共同体の中で何かの事柄を”共有する“ということは、その共同体のメンバー一人一人の中にある「自分はこの共同体の一員なんだ!」という帰属意識を高め、自らの所属先への忠誠心を強化させたり、仲間意識の向上から共同体内の団結力をアップさせることに繋がります。
そのため共同体を統治する側からすれば、共同体内の共通のシンボルの創出とは、円滑な統治のための有効な手段なのです。


こうしたことからルナチャルスキーも、ソヴィエトの未来のシンボルを生み出す必要性を強く感じていました。
そして、長い歴史を持ちながらも新しい大衆の心を掴むことにも成功したバレエというものは、まさにシンボル創出のためのプロパガンダの道具としてのポテンシャルを秘めるものとして、彼の目に映っていたわけです。

「プロパガンダ」:特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為



ここでもう一度先程のルナチャルスキーの発言を振り返ってみます。

「・・・たとえ異質な内容であっても、それが我が聴衆を生き生きとさせるほど大きな審美的な力であるならば―自分たち自身の要素を組み入れることで、それ(バレエ)はどれほど強力なボリシェヴィキの武器となることだろうか?」


「ボリシェヴィキの強力な武器」=「政府のプロパガンダのための有力な道具」
と読み替えることができますね。

バレエ自体の性質は社会主義の思想とは異なっているものの、バレエの大衆に対する影響力の大きさ(や、今後の見込み)を考えると、それはプロパガンダのための道具(=入れ物、媒体)として有力なものになり得る、と言っているわけです。
そしてあくまでバレエは入れ物であるので、その中には「自分たち自身の要素」(=国を象徴する概念や、思想、美学…など)を組み込む必要がある、ということです。

そのゴールは「ソヴィエトのシンボルの創出」です。


さて、ルナチャルスキーの抱いていたバレエへのこうした期待は、徐々に政府の中にも浸透していき、議論の焦点は「バレエがソヴィエトロシアに必要かどうか」という従来のものから、「いかにしてバレエを体制のために生かすか」というものへと移っていきました。

そして、この「バレエ・プロパガンダ化計画」は、これ以降のバレエの形式を大きく左右することになります。


***

本章の冒頭で「なぜソヴィエトは社会主義思想と相性の悪いバレエを、わざわざ文化冷戦の一手段として採用したのか」という疑問を提示していましたが、ここまで読んでいただき、その答えがひとつ分かりましたでしょうか。

政府は「バレエが社会主義思想と相性が悪い」ということを承知の上で、あくまで、プロパガンダを進めるための道具(入れ物)として利用しようとしていたのでした。
そしてその先には「ソヴィエトのシンボルの創出」という目的があったのです。

つまりバレエはバレエでも、従来の形式ではなく、ソヴィエト式にアレンジしたものを作り、利用しようと考えていたということですね。


次章では、この「バレエ・プロパガンダ化計画」について、その内容と顛末、そして振り回されるソヴィエトバレエ界の様子について、述べていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。☺︎

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