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「生きづらさについて考える」

表紙の金魚鉢に入った金魚が、ぱくぱくしている様とタイトルを見て、直感で「読んだら自分の中の何かが変わるかも」と思い、図書館で借りた一冊。

【本書の内容】
特に今の若者たちはほんとうに厳しく、生きづらい時代を生きていると思う。 僕が10代だった1960年代は明るい時代だった。 米ソの核戦争が始まって世界が滅びるのではないかという恐怖が一方にはあったが、 そんなことを日本人が心配しても止める手立てもない。 「どうせ死ぬなら、今のうちに楽しんでおこう」 という半ばヤケクソの、ワイルドでアナーキーな気分が横溢していた。 だから、自由で、民主的で、いろいろな分野で次々とイノベーションが 起きるとても風通しのいい時代だった。
それに比べると、今の日本の社会はとても風通しが悪い。息が詰まりそうだ。
誰もが「生きづらさ」を感じている。
世界は移行期的混乱のうちにあり、 あらゆる面で既存のシステムやルールが壊れかけているのに、 日本の社会はその変化に柔軟に対応できず、硬直化している。
当代きっての思想家が、この国の閉塞感の原因を解きほぐし、解決のヒントを提示する。 巻末に「あとがき リーダビリティとは何か」を加え、待望の文庫化!

毎日新聞出版「生きづらさについて考える」
著者 内田 樹
内容紹介より 

本書は、思想家(フランス文学者や武道家など他の肩書きもあるけど)である内田樹氏がさまざまな媒体に書いたエッセイのコンピレーション本の文庫版。
もとは2019年に出版されているので、内田氏が文庫版あとがきで「〜今読むとけっこうネタが「古い」と感じられたと思います。」と説明されている。

確かに、読み始めてから少しすると、令和の前の政権のトピックがちらちらと出てくるので、少しの古さは感じる。

けれど、タイトルにある「生きづらさ」を今の時代に感じたことがある日本に住んでいる人であるならば、その人の置かれた環境や状況などによってそれぞれ違いはあるかとは思うが、なにかしら「同感」や「共感」のような「自分も(少しまたは大いに)そう思ってたもしくは感じていた。」といった気持ちを抱くことができそうと思った。


読んでいて、気になったところをいくつか挙げてみたい。

営利企業が株式会社という形態を選択することに別に異論はない。好きにされればよい。
けれども、医療や教育や行政のような「社会的共通資本」を株式会社に準拠して改革されては困る。
それらの制度は営利目的で設立されたものではないからである。
「社会的共通資本」とは「それなしでは人間が集団として生きてゆくことのできない制度」のことであり、専門家によって、専門的知見に基づいて、定常的に管理運営されるべきものである。
(中略)
「社運を賭けて起死回生の大バクチを打つ」ということは株式会社であればいくらでもおやりになればいい。失敗したって倒産して、株券が紙くずになるだけである。
けれども、行政や医療や教育でそんなことをされては困る。取り返しがつかない。
 水道が出なくなったとか、交通網が途絶したとか、病院が閉鎖されたとか、学校が廃校になったとかいうことと、ある商品が市場に流通しなくなるというのはまるでレベルの違う話である(ある商品がなくなってもあっというまに代替商品が市場を席巻するだけのことである)。
 そんな簡単なことさえ理解できない人たちが「人間が集団として生きてゆくためにほんとうに必須なもの」と「(あってもなくてもよい)商品」を混同して、商品の開発・製造・流通と同じ要領で社会的共通資本も管理できると思い込んだ。
そのせいで、いまの日本は「こんなざま」になってしまったのである。

毎日新聞出版「生きづらさについて考える」
著者 内田 樹
『教育まで「株式会社化」したこの国の悲劇』より


このエッセイの本題は、国立大学の独立行政法人化による課題、主にデメリットについて内田氏が私見を述べているのだが、教育だけでなく、医療や行政にも同じ課題があり、それゆえに今の閉塞感があるのか?と感じた。

内田氏がはっきりきっぱり意見表明しているので、少しだけすっきりした感もあった。
それにしても「こんなざま」ってなんてインパクトのある表現…


いまの日本の社会はそれに比べると、ほんとうに風通しが悪いですね。息が詰まりそうです。
狭い「金魚鉢」のようなところに詰め込まれているような気がします。
世界は移行期的混乱のうちにあり、あらゆる面で既存のシステムやルールが壊れかけている。それなのに、日本の社会はその変化に柔軟に対応できずに硬直化している。
金魚鉢にひびが入り、いまにも割れて中の水ごと外に放り出されるかもしれないのに、若い人たちは、相変わらず「金魚鉢の中の」価値観や規範に適応するように求められている。

毎日新聞出版「生きづらさについて考える」
著者 内田 樹
『「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解』
より

このエッセイの出典は、ある大学の広報グループ編の文庫であるから、読者を大学生や今の若者を想定して綴られていると感じた。

けれど、狭い「金魚鉢」というのを、「社会」「世間」「組織」「会社」「学校」「グループ」などの言葉に置き換えても、なんとなく意味が通じると考えてしまった。

そして、できるなら自分は、狭い「金魚鉢」にひびが入っていることに気がついたら、割れて水ごと放り出される前に、自分の意思で「えーいっ!」と「金魚鉢」を飛び出して、自分が機嫌よくいられる場所を探しにいける勇気を持てたらと思う。

このエッセイの最後には、大学生へ「学ぶ」ということについて内田氏が考える心構えが綴られている。
もし、自分が学生の時にこの言葉を聞いたり、読んだりしていたら、「学ぶ」ということを再定義できていたかもしれない。

〜生きていく上で最も大事なのは、ニュートラルで、選択肢の多い、自由な状態に立つことです。それはできるだけ「オープンマインド」でいることと言い換えることもできます。
オープンマインドこそは、学ぶ人にとって最も大切な基本の構えです。
(中略)
自分が理解でき、共感できることだけを聴き、自分がよく知っている分野について知識を量的に増大させることは「学ぶ」とは言いません。
「学ぶ」というのは、自分の限界を超えることです。自分が使っている「わかる/わからない」の枠組みを踏み抜けてゆくことです。

毎日新聞出版「生きづらさについて考える」
著者 内田 樹
『「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解』
より


最後は、人生100年時代を生きるをテーマにしたエッセイから。

現在、政府が「人生100年時代構想会議」を立ち上げて、そのなかでリカレント教育(学びなおし)を推進しようとしています。
リカレント教育というのは、学校一度出た後も、技能や知識を大学などで学びなおし、それをキャリアアップや次の仕事につなげるという話です。
でも、僕に言わせれば、「余計なお世話」です。
リタイアした人たちを、今後もどうやって労働力として、あるいは消費者として「再利用」するかという意図が見え透いていますから。
(中略)
でも、いま政府が主導している「学びなおし」は学ぶ側の市民的成熟や彼らの生き甲斐なんか別に配慮していない。年金や医療費の出費を抑制したいから、高齢者も死ぬまで現役で働き続け、消費し続け、税金を払い続けてくれということに過ぎません。
人生100年時代構想会議の「中間報告」を読みましたけど、そこには、定年まで働き続けて、日本を支えてきてくれた先輩たちに対する敬意も謝辞も一言もない。みごとに一言もないんです。
むしろ、「お前ら、これで休めると思ったら大間違いだぜ。」と脅しつけている。

毎日新聞出版「生きづらさについて考える」
著者 内田 樹
『定年後をどう生きるか』より


リカレントやリスキリングなんてワードが出てきた時に、正直言って「学ぶ人は一生学ぶし、学ばない人もそれはそれで自由なのではないか。そもそも、言われてやれなんてモチベーションあがらないし、いやいややりながら得た知識なんてあっという間に忘れそうだから、コスパ悪そう。あと、学びを経済活動に直結させることもなんとなくナンセンスだし、そこに個人の人生とか本当に考慮されてるのか疑問。」などと個人的に思っていた。

それを内田氏がスパッと「余計なお世話」と言ってくれていたので、思わずにやっとしてしまった。

内田氏が論じている「見え透いた意図」については、本音と建前といったかんじで、国民はその本音に気づいているけど、諦めムードであえて静観しているようにも思える。
もしかしたらいろいろなことを諦めているから、「生きづらさ」として感じてしまうのだろうか。

「生きづらい」っていつ頃からネットなどで見かけるようになったかなと考えると、ここ10年くらいかなというのが自分の体感であり、それは自分が「なんかこの社会とか組織ってマジョリティ(少数派)にとって息苦しい気がする。」と感じ始めた時と一致している。

子供が産まれるまでは、自分の時間は大抵はコントロールできるものだった。
だから、残業も対応できたし、急な仕事も自分が無理すればなんとかなった。
それが、子供が産まれて、家庭生活と子育てと仕事を両立することになったら、途端に世界が一変したように、いろいろなことが難しくなった。
最初は、「慣れてないから、自分も努力や工夫しないと。」と思って対応していたが、いつしかこう感じるようになった。
「あぁ、社会や組織のシステムって制約やら支障などがないことを前提に作られてるから、その枠組みから外れると途端に生きづらくなるのかもしれない。」


とりあえず、今の子供たちの世代やその先の新しい世代にはこの世で「生きづらさ」を感じることが少ない社会のシステムになることを願っているし、そのために少しでもできることがあるなら、コツコツし続けていきたいなと考えている。

本書は、本当にいろいろ思考したくなってくる一冊だった。

「生きづらさ」を感じた時に、この本を読んだら、俯瞰してものごとを見ることができ、いま感じている「生きづらさ」は、いま生きている社会の歪みやシステムが壊れてきていることに人間の本能としての気づきとも言えるのかもしれないと、少しの希望と新しい視点を得ることができると思う。
自分にとっては、ちょっとした栄養ドリンク的な一冊だった。効く人には効くし、効かない人もいると思う。


内田氏の他の著作も、気になるものから読んでみたい。

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