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横光利一 春は馬車に乗って

「横光利一」「新感覚派」という対の言葉は、文学史上の暗記事項として知らずしらずのうちに染みついている。けれども横光の作品を読んだことはなかった。

横光中期を代表する作品のひとつが「春は馬車に乗って」とのことだった。1926年に発表されたこの作品には、結核をわずらった妻が登場する。病妻もののいわゆる私小説である。

肺結核は1950年より前までは治療に有効な薬がなく、不治の病であった。医療のすすんだ現代において、がんでさえ、早期に見つけることができれば克服可能な病となってきている。となると必ずしも病気と診断=死に結びつける思考回路は鈍ってきているのが今という時代ではないか。少なくともわたしはそうだ。

「春は馬車に乗って」は、床に臥せる妻とそれを看病する夫のふたりだけの会話劇と見ることができるが、その冒頭「しかし、この女はもう助からない、と彼は思った。」とあり、ここではまだ結核=不治の病=死、の図式が反射的に浮かんだにすぎないのだと思う。

夫婦の会話は病が進行するにつれ激しさを増してくる。
ここはぜひ読んでみてほしい。わたしは、夫よりも一足先に自らの死を受容していく妻の心情がとても切なかった。

海辺の町で、夫婦ふたりだけの療養生活。療養といっても妻の肺は凄まじいスピードで悪化していく。ある日夫が薬をもらいに医師のもとを訪れ、「あなたの奥さん、もう駄目ですよ」と言い放たれる。ここで初めて夫は、妻の死にゆく運命を突きつけられたのではないか。

その後の夫婦は、互いに思いやりをもって接しているようにわたしには見える。人って、なぜ普段から大切な人を大切にできないことが多いんでしょう。身におぼえがありすぎて、辛くなってくる。

結末の読み方は人それぞれのようです。ぜひ読んでみてもらいたい。みなさんの感想も聞かせてください。


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