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心の手術 〜ヴィパッサナー瞑想記〜

アニッチャ、アニッチャ、アニッチャ、、、



アニッチャとは無常という意味。
全てのものは、生まれては消え、生まれては消える去る。

これは自然の法。
宇宙の法。
ダンマなのです。

※ダンマとは自然の法、解脱したものの教え、解放への道

ヴィパッサナーは、ブッタが解脱に至った、唯一の瞑想法。

ブッタとは、悟りを開いた人のことを言う。
恥ずかしながら、ヴィパッサナー瞑想を受けにいくまで
”ブッタ” は人の名前だと思っていた。

ヴィパッサナー瞑想の礎を作ったのは
ゴータマ・シッダールタ

彼の教えが唯一、苦しみから解放される方法であると
多くの弟子から、弟子へ
宗派を問わず、誰でも出来るものだと受け継がれて2500年。

インド、ビルマから、ヨーロッパ、欧米、そして日本に。
2500年の歴史を持つ神聖な知恵を2023年、わたしが学ぶことになるとは。



この貴重な10日間の体験を、どのように言葉に残そうか。
インスタグラムに書くには文字数が足りないし、
この星読みブログに書くには、星から離れているのでは、、、
と思って、なかなか書けずにいた。


そんな時、ヴィパッサナー協会からニュースレターが届いた。

そこにはダーナをしなさい。と書かれていた。

ダーナとは寄付という意味。

ヴィパッサナーの瞑想センターは全てが寄付によって運営されている。
わたしも瞑想を受けにいき、たくさんの過去の受講者や、奉仕者の
ダーナによって10日間過ごすことができた。


わたしが10日間で体験し、経験した大きな知恵や、恩恵を
無料でたくさんの人に伝えることも寄付なのかもしれない。
けれど、何かがしっくりきていない。


ダーナ。
自分の得た良きものを他と分かち合いなさい。

この瞑想で、分かち合うべきものが何か気づいた。
それは自然の法。宇宙の法。
全てのものは生まれては消え去るということ。

この意味、深い部分に触れた時、心の汚濁が溶け出していく経験。
これをこの先ヴィパッサナーに出会い、経験を通し、
法の恩恵を受けられる人のために、寄付として伝えたいと思った。

なので、この記事は有料にし、ここでの売り上げを
全額ヴィパッサナー協会への寄付としようと思う。
(2023/5/1~無料開放しました)


誰かの寄付がわたしを通して、誰かのためになるように。


〜ヴィパッサナー体験記〜
わたしがヴィパッサナーという言葉を知ったのは
1年ほど前だったと思う。


その時は瞑想合宿なんて!それも10日?
修行の域が過ぎる!!と思って、ふ〜ん、そんなの行く人いるんだー!
すごいな〜尊敬するわ〜。ぐらいにしか思っていなかった。

5年くらい前から、毎日ではないけど、瞑想をするようになって
心が落ち着く感じとか、頭が軽くなる感じとか、心地の良い感覚に包まれて瞑想をしていた。
そんなこんなで、数年が経ち
ヴィパッサナーという言葉自体、すっかり忘れていた頃、
急に何度も聞くようになったのだ。

去年の秋くらいだったと思う。
”ヴィパッサナーに行ってきました!”
”今度行ってきます!10日間連絡取れませんので悪しからず!”
みたいな。

そしてご縁あって、実際に経験した人の生の声を聞く機会に恵まれた時
わたしの中で、”行きたい!!!” と思った。

思い立ったら行動は早いのが取り柄のわたし。
2023年1月1日の夜10時の申し込みに数分前からスタンバイして
ほどなく、予約が完了した。



〜ヴィパッサナーの扉を開く〜
3/1~3/12までの奇跡を何から話せばいいのか、、
濃すぎて、修行すぎて記憶も曖昧なところもあるけど
思い出せることは、残らず書き記そうと思う。

3/1 夕方に千葉のダンマーディッチャ(瞑想センター)に到着。
行きの電車で、神奈川から、東京を越え、千葉に入り、だんだんと田舎の雰囲気になるにつれ、ついに始まるのか。とドキドキとワクワクでいっぱいだった。

センターに着くと、すでに数名の参加者が到着していた。
順に受付を済ませ、貴重品と携帯を預ける。
ここから一切、連絡が取れなくなる。

何とも言えない、寂しさのような、決意のような、清々しさもありつつ、
携帯にしばしの別れを告げる。
軽い説明の後、順序よくお部屋に案内され、荷ほどきをするようにといわれる。


A8。
わたしの部屋No。
8って数字好き。
無限、インフィニティーって意味あるし、いいことありそう!(単純)
これから10日間、ここで寝泊りをするんだ、、とワクワクと、ドキドキが混じり
身がキュッとなった。

ドミトリーはとっても綺麗で快適。
壁もあって、カーテンで仕切られているから、個室空間だし
プライベートも守られる。

荷ほどきして、庭を散歩して(他にすることないから)
毎日のスケジュールチェックして、オリエンテーションの時間がやってきた。

オリエンテーションでは、これから10日間の過ごし方や
スケジュール、5つの戒律、強い決意などについて説明がなされた。


〜スケジュール〜
4時起床
4時半〜6時半 ホールか個室で瞑想
6時半〜8時 朝食と休憩
8時〜9時 グループ瞑想
9時〜11時 ホールか個室で瞑想
11時〜13時 昼食と休憩、質問タイム
13時〜14時半 ホールか個室で瞑想
14時半〜15時半 グループ瞑想
15時半〜17時 ホールか個室で瞑想
17時〜18時 ティータイム、休憩
18時〜19時 グループ瞑想
19時〜20時半 講和
20時半〜21時半 ホールで瞑想、質問タイム


と、こんな感じでみっちりとスケジュールが組まれている。

4時起き。。。
ゴルフの日でもさすがに4時起きはしないわ。
起きれるのか心配、、、と思いながら黙って説明を聞く。


次に5つの戒律
・殺生をしない
・盗みを働かない
・性的行為の禁止
・聖なる沈黙(間違った言葉を使わない)
・お酒やドラッグの禁止

本や、ノートへのメモも禁止。
ここでの学び以外、本からの知恵や知識を入れないため。

最後に、10日間、逃げ出さず最後までやり抜く覚悟を決めてください。
と強く言われる。
絶対に逃げないと。強く誓いなさい、と。
この言葉がわたしにドーンと重くのしかかり、
”凄いところに来てしまったかもしれない・・・”と少し怖くなった。


その後に軽く食事をとり、聖なる沈黙が始まる。
その後、ホールにて、これから始まる瞑想法について、やり方が教えられる。
明日からはこの瞑想をするように、、、と。


聖なる沈黙
10日間、誰とも話さない。アイコンタクト禁止、身振り手振りで伝えるのも禁止。
これは絶対に守らなくてはいけない。

だだひたすらに、自分と向き合うしかない世界。

到着の1日目は、こうして、これから向き合う沈黙の世界への覚悟を決め
明日の4時起きに備えて9時就寝。

時計を持ってきていなかったので、今が何時かわからない。
(時計は持ってきて大丈夫だが、わたしは腕時計をしないタイプ。
毎日の時間さえもスマホに頼っている自分に気づいた瞬間だった)

時間を知らせてくれるのは、鐘の音だけ。
※時計は、食堂と、トイレシャワーエリアにあります。

朝4時に起きれるのか、鐘の音に気づけるのか、不安すぎて全く眠れなかった。


〜瞑想合宿1日目〜
4時に起き(無事に起きれた。というか、不安すぎて眠れなかった)
顔を洗い、身支度を済ませ、4時半にホールへ向かう。
ここから2時間、昨日教えられた瞑想をする。


足は痺れるし、背中は痛いし、お尻も限界。
呼吸に意識を向ける瞑想法で集中してもすぐに、思考がおしゃべりを始める。
おしゃべりしていることに気づくまでに随分かかって、呼吸に意識を戻す。
この繰り返し。
こんなおしゃべりな思考のわたしが10日も瞑想できるんだろうか・・・と不安になる。

1時間半くらい経った頃だろうか、指導者が入室し、その数分後に経典が流れ
終了する。

まだ始まったばかりだが、2時間も座り続けられた自分を褒めたいっ!
とナチュラルハイになる。
(この後、想像を超える修行が待っていることも知らずに)


6時半に朝ご飯を食べ、部屋に戻る途中
雨上がりの空に虹がかかっているのを見つけた。

この瞬間、”あ、わたし10日間やり切れる”と思った。
何の自信かわからないが、確信があったのだ。

1日目〜3日目はただひたすらに呼吸に意識を向ける瞑想。
鼻から、上唇の三角ゾーンだけに意識を向けて呼吸を観察する。

これを1日10時間。
しんどい!!苦行すぎる。
全身に走る痛みと、おしゃべりな思考と、呼吸の観察で
感覚が忙しい。

こんなにも呼吸に意識を向けたことない。
いろんな気づきが出てくる。
右の鼻のが通りがいいなーとか、呼吸が浅いなー、深いなーとか。

ヨガのプラーナヤーマの呼吸法とは違い、
呼吸のコントロールはしない。
無意識に起こる呼吸を、意識して観察するだけ。

これを毎日するのだ。
ただひたすらに、毎日。
10時間も。

3日目になると、新たなミッションが課せられる。
”感覚を感じろ” と言われるのだ。

鼻腔を通る空気の感覚。
皮膚に触れる空気の感覚。
ピリピリした感覚、冷たさ、暖かさ、振動、湿っぽさ。
いろんな感覚を。

アニッチャ。
全てのものは生まれては消え去る。
止まる事は無い。


鼻腔を通る空気の感覚。
皮膚に触れる空気の感覚。
ピリピリした感覚、冷たさ、暖かさ、振動、湿っぽさ。
いろんな感覚も全て、無常なのだ。

無常。
宇宙の法。
自然の法。

私たちの身体は、素粒子から成り立っている。
これはこの世界のもの全て。

感覚に気づき、心を研ぎ澄ませ、集中すると
体の微細な振動に気づき始める。
身体は素粒子で、振動していて、波動で、
エネルギー体であることに気づき始める。

動き続けていて、止まることはない。
常に変化していることに気づく。

無常だ。

この "気づき” が一番初めに実際の体験として、腑に落ちた瞬間だった。


全ては波動、エネルギーだよ。と見たり、聞いたりして
そうなんだ、そうだよね!と今まで
わかった "つもり" でいたのだ。


毎日の講話でも
知恵とは3つあると、何度も言われる。


一つ目は、スータマ・マヤー・パンニャ 人からきいて得た知恵
二つ目は、チンター・マヤー・パンニャ 見て、調べて、分析して得た知恵
三つ目は、バーヴァナー・マヤー・パンニャ 自分の経験に基づく知恵


この中で、代わりのきかない知恵って
三つ目の、経験でしか無いということ。
この感覚を身体を使って知った時、ブワーッと全身に電気が走った感覚になった。


経験こそ、ものをいう。
嘘のない、本物の知恵。


百聞は一見にしかず。というけれど
何度聞いても、実際に目で見る方が確かであるという意味。
だけど、これだけじゃ、まだ二つ目の知恵にしかすぎないな〜と思った。

二人の人が同じ経験をしても、同じものを見ているとは限らない。
同じ体感、感覚を感じているとは限らない。

同じ経験をしても、二人いたら、二通りの経験談がある。

これが身体でわかると、日常で、どうしてわかってくれないの?
とか、相手を変えようとエネルギーを使うことが、
どれほど無駄なことなのかがわかってくる。
感情任せに、反応することもなくなるので、平静な心で相手を見て、受け入れることができるようになると思う。

この知恵を知れたわたしは幸せだ。


この最初の3日間の瞑想は、ただ呼吸に意識を向け
呼吸から感覚に意識を向けるというものだった。
これはアーナーパーナ瞑想というもの。

4日目から始まるヴィパッサナー瞑想のための瞑想に過ぎなかったのだ。(驚きっ!!!)


毎日、19時から講話がある。
1時間〜1時間半あるのだが、わたしはこの時間がすごく好きだった。
とても現実的で、実践的な心の手術(ヴィパッサナー)をする瞑想について
延々と、宇宙の真理、自然の法、心と身体の話。
感情の生まれ方や、心について。
例え話が、面白くて、めちゃくちゃ現実的で、
ひと時も聞き逃したくないほどだった。


ブッタは言った。
”人間は生まれた瞬間から、苦しみが始まる”と。

この苦しみの種は何なのか。
なぜ人は苦しむのか。

それは嫌悪と渇望。
この心の反応によって、起こるという。

その反応は、どのようにして起こるのか。
それは、身体と心の接触部分にある "感覚" だという。

感覚に反応する。
心地いい、悪い。暑い、寒い。痛い、気持ちいい。
様々な感覚が、嫌悪と渇望の反応に無意識に結びついていて
それが、心の奥深くに積もっていく。
無意識と思っているこの、心の汚濁さえも、意識した反応の産物に過ぎない。


全ては意識なのだ。

ここまで書いていても、再度理解するのに時間がかかるので、
初めて読んだ人は、理解に苦しむかも知れない。


こんな話が毎日、講話で話されるのだ。
どういう意味??と考えていたら、どんどん話が進んで置いていかれるので、
毎日頭がパンクしそうだった。

21時半就寝の、その前の講話の時間。
理解に苦しむ多くの内容が入ってくるので、
身体は疲れているけど、頭が冴えて眠れない。
こんな状態が毎日続く。


でも、日に日に、昨日の講話の意味ってこういうことか!と、瞑想中に
感覚を通して点と点が繋がっていくので、面白い。


〜ついにヴィパッサナー瞑想が始まる〜
4日目、ついにヴィパッサナー瞑想に入る。
実践が始まるのだ。

昨日まで、鼻腔と上唇の小さな三角形に意識を向けていれば良かったのだが、
ここから、意識を全身にくまなく移すことが始まる。

頭の天辺から、足の先まで、くまなく意識を巡らせる。
初めは1箇所づつ、細かく意識を向け、感覚に気づく。
まるで全身をスキャンするように、意識を向ける。

これがわたしには難しかった。
小さな三角形では集中して、出来たのに、範囲が大きくなると
一気に集中力が切れるのだ。

思考のおしゃべりが止まらない。
喋りまくる、わたしの思考。
でも、いつもは不安や心配が多い頭の中も、4日もすると
楽しく、わたしのなりたいわたしの映像や、やりたいこと、アイデアなどたくさん出てきて、とてもポジティブな思考に変わっていることに気付いた。

しかし、感覚に意識を向けなくてはいけない時間に思考にコントロールされてはいけない。この攻防戦が幾度となく続くのだ。

限られた10日という時間の中で、思考に持っていかれ、
心がコントロール不可になった状況も、気づきと、瞑想に戻るための訓練だったし、いかに心は意識しないとすぐに、いろんなことを考え出してしまうのか。
という自分の癖も明らかになった。


ヴィパッサナーに戻ろう。
心が乱れた時は一度、意識して強めの呼吸で、気持ちを切り替えて、
また頭から順番に全身の感覚を見ていく。

粗雑な感覚、微細な感覚。どんな感覚も見逃すことなく
そして、反応することなく、ただ、ありのままの感覚に気づく。


”ありのままを観察すること”
これがヴィパッサナーなのだ。


この日の講話だったかな。

人はなぜ生まれるのか。
なぜ苦しむのか。苦しみとは何なのか。

聞いていて、あまりいい気分ではない、死の話や、殺しの話なども出てくるので、心がギュッとなることが多かった。

自殺についても語られた。
自殺は、苦しみ以外の何物でもない。
生きることに苦しみながら、苦しみを感じて死ぬことになるからだという。

この苦しみは、次に生まれ変わってもずっと続くらしい。
カルマとは、こういうことなのか。
苦しみが受け継がれていくのか。とまた胸がギュッとなった。

わたしの父は、自殺している。
当時は残された家族は、苦しい、やりきれない、可哀想。
被害者意識が強く、それに苛まれ、苦しみ、辛かった記憶しかない。

何で死んでしまったのか、父が死ぬ前に何かできる事はなかったのだろうか。と、
父を許せなくなったり、何十年か経って、許せるようになったり、
また、許せなくなったり、
いろんな感情を交差して、ここ数年でようやく許せたはずだった。

許せた”つもり” でいた。

この講話を聴きながら、一番苦しみ、どうしようもなかったのは
父だったのだ。この苦しみは、父のものだ。
わたしのものではない。
辛かったんだね、苦しんでいたんだねと、慈悲の気持ちが出てきた。
でもこの苦しみは、わたしのものではないからいりません。お返しします。
こんな感情が出てきて、何かがスーッと消えていった。

この瞬間、先週の2/27が20回忌の命日だったことに気付き、
2日後の3/6が父の誕生日だということにも気付いた。

数年前から、ヴィパッサナーのことは知っていたが、
このタイミングに来たことの意味や、ずっと引っかかっていた
心の汚濁となってこびり付いていたものが取れるのは、きっとこの日だったのだと全てが繋がって、清々しくなった。


3月は土星が星座を移動したり、冥王星が移動したりと
今年の中で最も重要な月になるのはわかっていたし、
3/7は乙女座の満月で、浄化の満月だという事は知っていたけど、
ここまで心の手術が施されるとは思ってもいなかった。

全ては無常。
生まれては消えゆく。
自然の法、宇宙の法。


これがきっかけとなって、全てが止まってはいないこと、
毎秒、毎瞬、新しくなっていることに全てを委ねよう。
争うだけ無駄だ。と身体が軽くなったのだった。


〜5日目。苦行の追加〜
この日から新たに、アディッターナが加わった。
アディッターナとは、強い決意のこと。

強い決意とは
一日3回、1時間のグループ瞑想中は
1、姿勢を変えてはいけない。(脚を組み替えることNG)
2、大きく手を広げてはいけない。(手を動かすことNG)
3、目を開けてはいけない。
というもの。

これが本当に地獄だった。
人生でこんなにも、あぐらをかいて座ったことがないので、
わたしの足の関節(特に右脚)はもう、限界だった。

1時間も同じ姿勢で、動いてはいけないなんて、どんな修行なんだ、、、

グループ瞑想以外は、動いてもいい(多少)ので、心身ともに余裕があるが、
この日以降のグループ瞑想はそうもいかない。


1回目のアディッターナは動いてしまった。
30分は座っていられたと思うが、(瞑想ホールには時計がないし、そもそも目もあけてはいけないので実際の時間はわからない)
そのあとは、もう限界を通り越していて、脚が付け根からもげてしまう感覚に陥り、身体を頭から足先まで、じっくりスキャンしている場合ではなかった。

もう無理ーーーー!!涙
動いてしまった。
強い決意も30分が限界なんて、忍耐力のなさに悲しくなった。
この悲しさが、嫌悪に変わり、心の深い部分に蓄積されてゆくのである。

これが残りの日数、毎日3回も続くなんて、、
憂鬱すぎる。泣きたい。

この日、昼間のグループ瞑想の後の、
個人瞑想(15時半〜17時)はお部屋でしようと思い、瞑想していたら
急激に眠気に襲われ、横になってはいけないと思いながら、5分だけ。。。と
横になってしまった。


もうわかるよね?
この5分だけが、取り返しのつかないことになることを。

目が冷めたのは、ティータイムを知らせる17時の鐘だった。

あ、やってしまった。。。
またしても負けてしまったのだ。


罪悪感を抱えたまま、食堂に向かう途中、トイレに寄り、
鏡を見ると顔には、布団の跡がついていた。
それを見てまた自分が悲しくなった。
嫌悪がどんどん溜まってゆく。


個人のお部屋での瞑想はホールでの瞑想以上に自分との戦いだった。
誰も見張りには来ないし、決意を持って、自分を見張るのは自分しかいないと
お尻を叩かなくてはいけない。
動いてはいけないアディッターナ以上に、強い決意で瞑想しなくてはいけない。

この日の講話は、瞑想中にやってくる”敵”についてのお話だった。
その中に睡魔があるとの話だった。

講話では、5分だけと思い、横になってはいけません。と・・・
ぎょっ!!!
今日のわたしの行動を見られていたような講話に背筋が凍った。
(この日だけでなく、毎日の講話はシンクロすること、これはこういうことか?と疑問に思っていたことの答えが話されることが多く、驚きの連続)


睡魔に打ち勝ちなさい!負けてはいけません。と。


違う敵は、周りの人と比べること。
周りの人と比べてはいけません。
戦うべき敵は、他人ではなく、自分なのです。

みんな、何で動かずにずっと同じ姿勢で座っていられるの?
人が気になって、こんなに動いているのわたしだけかも。(わたしの心の声)
と、個人瞑想中に、他の人を観察していた。
(これも講話に出てくる。わたしの心の声がそのまま、話される感じ)

あ、みんな同じこと考えているんだ。わたしだけじゃなかった。
謎の安心感。
自分ではなく他人と戦っていた。
自分に集中しなくては!と、合宿も半分を超えて、再度気合が入った瞬間だった。



〜6日目。自分に打ち勝った瞬間〜
この日は昨日の自分の失態に打ち勝つために、個人瞑想の時間も全て
ホールで瞑想した。
10時間の瞑想を全てホールでしたのだ。

この日はわたしにとって、大きな達成感のある日になった。
アディッターナのグループ瞑想で、1時間動くことなく
やり切ることが出来たのだ!!
この達成感は凄かった。感動!涙!


休憩の時、トイレでセルフハグした。
”やり切った〜!わたし、頑張った〜!!!”

この日分かったことがある。
なぜアディッターナ、強い決意も持ちなさいと言われるのか、
動いてはいけないのか。


ヴィパッサナー瞑想は、渇望、嫌悪の心の汚濁を浄化し
膿出しをし、これ以上サンカーラ(反応による心の条件付け、心の反応、癖)
を生み出さないことが目的。


人は、意識 ⇒ 認識 ⇒ 感覚 ⇒ 反応の順番で身体や心に渇望と嫌悪が刻まれます。

例えば、沸騰している、やかんを触ったとしましょう。
触って、熱いと感じ、不快に思い、もう嫌だと思う。
これを一瞬で判断し、心の汚濁を生み出している。

不快に思うことから、避けたい、逃げたい、嫌だ・・・などが嫌悪になり
この嫌悪を取り除こうと執着になり、苦しみになるというもの。

簡単にいうと、ヴィパッサナーとは
熱いということを客観的にありのまま見る→無常であることを知る(ずっとは続かないことを知る)→反応しない=嫌悪や渇望は生まれないということ。

これは、頭で理解するには、簡単なようで難しい。

瞑想中の姿勢を変えてはいけないことで、痛みが極限までいくのを、
”この痛みは無常である。生まれては消え去ることを、ただ観察してみよう” 
と、痛みから逃げようとするのではなく、痛いと思うのでもなく、
ただありのままの感覚を観察する。

そうすると、痛みの中心が動き、位置を変え、数秒後には消えていくことがわかる。ここから意識を別のところに変え、数分後にさっきの痛みのところに戻ってきたときには、その痛みはすでにないことに気づく。

無常であることが、体感として分かる瞬間だ。
この瞬間を経験するために、一切動いてはいけないのだ!
動くこと=逃げること=反応していることになるからだ。

これが分かった瞬間、
苦行もさっきまでの地獄のようなものではないことに気づく。


ブッタは言った。
この痛みが消え、嫌悪を生み出さず、微細な感覚への変化を感じ、
心地の良さを感じる。

【痛いーーーっ!!でも動かず、観察してみよう。この世の全てはアニッチャ、無常なのだから。・・・・(観察)・・・あ、痛みが消えていく!!わあ〜。消えてなくなった!すごい!!心地良ささえ感じる。このまま痛みなく、続いて〜!!!】

と、この心地よさが続いて欲しいと願ってしまう。

これが一番危ないことだと。
この瞬間、嫌悪を生み出さなくなっても、渇望を生み出しているからだ。

渇望とは、”もっと欲しい” ”これがいい” と執着している状態のこと。

このブッタの言葉は、この日の講話で出てきたんだけど
この日のわたしは、嫌悪を生み出さなくなって、この痛みがスーッと消えていく瞬間の心地よさが続いて欲しいと、願ってしまっていたのだ。
これが渇望になっていたとは、気付いてもいなかったので、またしても、
わたしの行動が見透かされていたと、ギョッとしたのだった。


体の痛みや、粗雑な感覚に反応しなくなると、過去のサンカーラ(反応による心の条件付け)心の奥底に溜まっていた、嫌悪や渇望が姿を現す。
これは、嫌悪を生み出したであろう過去が、思い出などとして、浮かび上がってくる。
これにも反応することなく、観察することで、力をなくし心から消えてゆく。
こうして、過去に作り出した、心の癖たちは浄化されていくのだ。

わたしは、ヴィパッサナーを通して、嫌悪よりも渇望が多く
心にこびりついていたことに気付いた。
意外だった。欲の深さが嫌悪よりも多かったのだ。

こうして、この日は、1日中ホールで瞑想した。
この日は記憶もないくらいに、ベットに入ってすぐに眠りに落ちたと思う。


〜7日目。集中が続かない!〜
この日も朝4時半から2時間、ホールで瞑想。
この合宿も、後数日で終わりかと思うと、なんだか寂しくなってくる。

朝は、ホールに光がだんだんと差し込み明るくなっていく感覚、
鳥が鳴き始める声を聞くのが好きだった。

こんなに、外の情報を遮断し、会話をせず、黙々と自分の観察。
楽しみといえば、ご飯の時間と、虫や草花の観察、星や月の観察だった。

瞑想センターのご飯は、本当に美味しかった。
菜食ご飯で、レシピを教えて欲しいほど、美味しかった。
これも寄付と奉仕者の方の恩恵なのだから、ありがたい。

3日に一度、朝ごはんにパンが出てくる。
(基本はご飯かお粥)
このパンが本当に美味しかった!!涙

人生で、3本の指に入る美味しさだった。
(実際は3本もないわ、1本だけだ。笑)
それがイビザにある、クロワッサンショーのクロワッサン。
いまだかつて、ここのクロワッサン以上に出会ったことがない。
このクロワッサンの感動を超えるパンに出会ったことがなかった。

けれど、ここで出されるパン(カンパーニュ)は本当に感動の美味しさだった。
忘れられないし、このパンを食べたいがために何回でも10日の合宿をしたいくらい。

感覚が研ぎ澄まされているからなのもあるけれど、
日常の景色や、温度、味に毎日ただただ感動する。


1日目には咲いていなかった、花が少しづつ開いていくし、
雨上がりのクモの巣にかかっている、滴がキラキラして自然って
こんなにも綺麗なんだ〜・・・と思ったり。

空や雲の動きを見て、
あ、雨が降りそうだな。とか、あと数時間で
晴れるな〜とか、天気も読めるようになってきたりした。

幸せなことに、3/7の満月を雲ひとつない、空の中、見ることが出来たし、
たくさんの星を観察することが出来た。

葉山に引っ越して自然と近くなったけど、海ではなく
山で感じる自然もいいな〜としみじみしたり、自然の変化を感覚で
感じることが出来たのも、とても貴重な経験だった。


7日目。
わたしにとって山場だった。

この日は、全くと言っていいほど、集中できなかった。
身体の観察をしようと、頭の天辺から足の爪先まで
くまなくスキャンしてみても、微細な感覚さえ感じられなかった。

粗雑な感覚も、注意深く観察ができず、ただ時間だけが過ぎていく。

7日目になると、アディッターナも慣れてくるので、1時間動くことなく座ることは容易になってくるが、最後の10分くらいで限界がやってくる。
この最後の山場を乗り越える必死の攻防戦が、自分の中で繰り広げられた。

瞑想の最後15分から10分前には、経典が流れ始めるので、
これがもうすぐ終わるお知らせの一つだった。
これが聞こえてくるまで、ただ沈黙の中で耐え続けるのだ。

集中力が続かない。微細な感覚を感じない。感覚を全身に動かすことが出来ない。
焦りを抱えたまま、この日の講話の時間が来た。


講話の中や、瞑想に入る前の誘導の言葉でも
心を鋭く研ぎ澄ませなさい。
心を平静に保ちなさい。
平静に。平静に。平静に。


集中できないと悩み苦しむこと、これも執着。
このサンカーラが、嫌悪を、渇望を生む。

平静さを持って、どんな感情も状況もただありのままを観察する。

”こうあって欲しい” と思うことなく、ただありのままを。


心が平静さを保てるようになって、感覚に反応しなくなると
感情がなくなってしまうのではないか。と不安になった。
感情がなくなったら、人生のあらゆることに対して、楽しみも苦しみも
味わいきれなくなり、人間特有の感情がなくなって
楽しみが人生からなくなってしまうのではないかと。


でも、そうではない。
平静さを保ち、全ては生まれては消えるという、自然の法・宇宙の方を理解すると、反応して、嫌悪や渇望を産む事なく、執着する事なく、落ち着いて対処できるような力が付くのだ。

人間はどれだけ、感覚に瞬時に反応して、サンカーラを生み続けているのか。

サンカーラを生み出すことがなくなり、過去のこびりついたサンカーラが浮き上がってきて、消えてゆくのをただ観察すること、膿出しをただ観察すること。

心にコントロールされることなく、心をコントロールできるように修行する。
10日間、ヴィパッサナーをするようになったから、心の汚濁がなくなるわけではない。多少はこの期間で浮き上がり浄化されるが、日常に戻ってからの意識が大切だという。
それはそうだ。ヴィパッサナーを知って、実践して、経験したから悟りを開けるわけではない。

この経験を通して、ブッタが解脱に至った唯一の瞑想法はこれだと知った
けど、到底悟りを開くことは、難しく、根気と覚悟と修行が必要なのだと知った。

ブッタは、5歳の時に意識の観察を始めた。
そこから心の観察を始め、35歳で解脱に至った。
30年以上、瞑想をして、解脱したのだ。

その先80歳で死ぬ直前まで、人々にこの自然の法
【ダンマ】を解き続け、ヴィパッサナーを教え続けたのだ。

集中できない日があっても、アニッチャなのだから、それでいい。
ありのままなのだから、それでいい。


〜8日目。働き続けなさい〜
この合宿もあと3日で終わる。

残された時間を無駄にすることなく、懸命に働きなさい。
と語られる。

瞑想することを、働くと言う。

瞑想しているとき以外の時間も、今に気づき、感覚を研ぎ澄ませなさい。
歩いている時は、歩いていることに気づき
ご飯を食べている時は、ご飯を食べていることに気づく。

歩いているときに感じる、足の感覚、体の感覚に敏感になりなさい。
ご飯を噛み、喉を通り体の中に入っていく感覚を観察しなさい。

働き続けなさいと。


マインドフルネスとは、今に気づくこと。
合宿でも同じことが言われた。

そうして自分の日常に気づき続けること。


瞑想をして、心が浄化されると、日常生活に戻ったとき
ギャップに疲れてしまい、仕事に身が入らなくなるのではないか?
と不安に思う人がいるという。
わたしもそう思っていた。

けれど、感覚に気づき、今に気づく訓練をしていると、今に集中し、
やるべきことがわかっているので、集中力が上がり、感覚に反応することが
減るので、効率が上がるのだと講話で話していた。
一生懸命に、働くことができると。


この日も朝の4時半からいつも通り、ホールで瞑想していると
思考のおしゃべりが始まる。

でもこの日のおしゃべりは、未来のヴィジョンがありありと
はっきりとリアルに見えたのだ。

このパラレルが今同時に起こっているのだから、
この世界はもうすでに叶っている。
こうなりたいと強く思って出てきたものではない、ありのままを見つめ、
執着することなく、観察をする。

スーッと消えていく瞬間も、ずっと続いて欲しいと思うことなく
ただ、心の中で、
アニッチャ、アニッチャ、アニッチャ、、、
生まれては消える。生まれては消える。と繰り返す。


この頃から、頭に浮かぶ顔ぶれが今のわたしに必要な人なのだと、
気づき、愛が溢れるようになった。

その瞬間、全身に鳥肌が立つように強く繊細な感覚が、電気のように走り続けた。

しかしこれもまた、生まれては消えた。


〜9日目。一生懸命に、ただひたすらに働きなさい〜
明日で、10日目。
明日で、聖なる沈黙が解かれる。
明日は、ヴィパッサナーではなく、新しい瞑想法が教えられるらしい。

これは、ヴィパッサナーで心の手術をした、その心の傷跡に
軟膏を塗るような瞑想だという。

なので、真剣に、懸命に瞑想ができるのは今日で最後。
最後までやり切りなさい。
感覚を全身に巡らせ、どんな感覚も取りこぼすことなく、観察しなさい。

肌の表面だけでなく、内側、内臓にまで貫くように感覚を巡らせなさい。
と、さらに深い観察が始まった。

この日は、集中力も続き、全身のスキャンもスムーズでどんな感覚も
反応することなく、観察ができた。

アディッターナの時間も、強い決意を持って、座り続けることができたし
部屋での瞑想も、自分に打ち勝ち、眠気にも打ち勝ち、やり切ることが出来た。



〜10日目。メッターバーバナの日〜
この日は、朝の瞑想中、
ふと、地震くるかも。と思った。

その数分後、床が下から押し上げられるような
ドンっという音とともに、揺れ始めた。

けれど、瞑想中。
心を平静に、、、と言われ続けているので、目を瞑り続けた。
そして、誰一人、この状況を平静にただ、過ごしていた。

この日は、3/11だった。
平静な心で、いろんなことを思いながら、わたしが今できることは
心を平静に保ちながら、座り続けることだと思って2時間座り続けた。


この日の午後は、新しい瞑想法が教えられた。
メッターバーバナーの瞑想。

【慈悲の瞑想】

”わたし” だけに集中し、自分の心の汚濁を取り除くための瞑想を続けた
9日間。ここからは、わたしだけでなく、他の人に対して、
慈悲と愛を送る瞑想法に変わった。

瞑想センターは、寄付や、奉仕者の人たちのおかげで運営され成り立っている。
寄付をダーナという。

講話で、この瞑想法を通して、自分が得た知恵を、他の人に分け与えなさい。
寄付をしなさい。と教えられる。

分け与えること。

誰かのために、お金でも、知恵でも、祈りでも、なんでもいい。
自分から与えるのだ。
自分から与え続ける。見返りを求めることなく、その人が幸せであるようにと、愛を持って。


メッターの瞑想。

【生きとし生ける全てのものが幸せでありますように】
【生きとし生ける全てのものが苦しみから解放されますように】

【わたしの愛が、調和が、慈しみが、福徳が育まれますように】
【わたしが苦しみから解放されますように】
【わたしのダンマ、ダンマが広がっていきますように】


この愛と慈しみ、慈悲の瞑想が、わたしの全身に響き渡ったとき
身体の中心から、何かが溢れ出すように、
ブワーッと止まることなく溢れ続けた。
それと同時に、涙が止まらなくなった。
溢れ出すものが、何なのか、何故こんなにも涙が溢れるのか。

ただこの言葉の調和が、波動が、エネルギーが、
ホール全体に広がり、人々に、世界に、宇宙に広がっていくのが見えたとき
この世界のすべては素粒子で、エネルギーで、波動であることが、
感覚、身体を使って再度経験出来た。

わたしの中から、惜しみなく溢れ出たもの。
それは、愛だった。
わたしにはこんなにも愛があったのだと知ったとき、
心の汚濁が、スーッと消え去り、浄化され、幸せに包まれた。

慈悲の瞑想は、知っていたし、今までの瞑想の最後には、
【生きとし生ける全てのものが幸せでありますように】
と心で唱えていたけれど、今までの感覚とは全然違った。

この日学んだメッターの瞑想は、愛と調和、それがこの世界の全てなのだ。
と深く深く、心に刻まれた瞬間だった。

これまでの、苦痛、苦悩、自分との戦いの日々が一気に
浄化され、純粋なものに変わった瞬間だった。

ただ、これも生まれては消える、性質を持っていることを
忘れてはいけない。


どんな感覚も、感情もすべては変化している。

無常なのだから。


どんな瞑想法を実践してもいい。
自分に合う瞑想法を見つけよう。

ヴィパッサナーが自分にあっていると思うなら、毎日続ける。
ヴィパッサナー以外の瞑想法は一旦やめて、この瞑想法だけを
取り入れて、自分の変化を確認する。


わたしが今までしていた、瞑想法は心を穏やかにするものだった。
穏やかになり、心や思考がクリアになり、
物事の判断力が上がったりもした。本音も見えてきた。

けれど、ヴィパッサナーは心の穏やかさのもっと奥にある
ずっと蓋をしてきた、隠してきた、心の汚濁を取り出す方法。

苦しみからの解放。
最も心が軽く、クリアに、純粋に戻るための治療そのものだということを知った。


この10日間の貴重な経験は、わたしにとって
人生の見方が180度変わるほどの衝撃体験だったし
春分前に、人間として生まれ、感覚を感じ、身体を
使って強制デットクスさせられた体験となった。


環境、自然、宇宙すべてに感謝したいと思う。


今度は、インドのヴィパッサナー瞑想合宿に参加したい。
ヴィパッサナーが受け継がれ続けている
インドの地へ、足を運ぼうと思う。

昔から、インドに行ってみたいと思っていたけれど
ここにきて、行くべき理由が見つかった。

アーユルヴェーダに惹かれ、もっと実践的に勉強がしたいと思った時も
インドではなく、スリランカに行った。
インドではなかった。
スリランカと隣の国なのに、近くて遠い。
まだインドのタイミングではないのだと、
スリランカで古代の叡智に触れ、宇宙哲学に触れた。


ヴィパッサナーを知り、学び、修行する中で
わたしがアーユルヴェーダを学んだ理由も
知りたいと思った理由もすべてが繋がった。


意味のないことなど一つもない。

もしもわたしが、解脱し、悟りに至った時
過去に生きてきた自分が全て見える時、
きっとインドにも、スリランカにも生を受けて
生きていた過去があるはずだと理由のない、確信が生まれた。

それでも、わたしには
一生かかっても今世では悟りに至れないだろう。
それでいい。

この経験が、悟りに近づいた小さな1歩であることに
間違いはないのだから。

執着も嫌悪も、浄化して、昇華させては、また生み出して、
気付いて、浄化して、、、ヴィパッサナーの恩恵を受け、
その繰り返しの中で、今日よりも明日が、晴れやかで、穏やかで、
心と身体が健康で、誰かのために愛と慈しみを送りながら
愛する人たちと、調和し慈しみを持って生きていければそれでいい。


そう願いながら、春分の決意に変えて。


生きとし生ける全てのものが幸せでありますように。
生きとし生ける全てのものが苦しみから解放されますように。


2023/03/21  
春分
宇宙元旦

愛を込めて。
ERI 












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