感情を揺さぶるプラクティカルでないもの - エモーショナルデザインを考える

近頃エモーショナルデザインについて考えているのだけれど、ユーザビリティに優れていて、美しくて、かつ自己顕示欲をも満足させるプロダクトばかりが、素晴らしいわけではない、ということに思い当たる。

とても使いにくくても、愛されるモノたちがある。それらは、ユーザの本質的な感情に訴えることにフォーカスしている。

ハイヒール

私は、ハイヒールが好きだ。みるのも触るのも履くのも好きだ(しかし履くことを強制されることはもってのほかだ)。美しいハイヒールは芸術品のレベルですらあると思う。

しかし、ハイヒールは優しくない。ユーザビリティは決して優れていない。しばらく歩くと足が痛くなるし、ピンヒールは道路のタイルの隙間に入るし、その度にヒールに傷がつくし、いざという時に走れない。

しかし私はそれでもハイヒールを買う。ときには、愛でるためだけに買う(履くつもりで買って結局愛でるだけで終わることもある)。

それはなぜなのか。前に書いた「感情デザインの3つのレベル」と絡めて考えてみよう。

本質デザイン
ハイヒールの美しさは、本質的デザインとしては素晴らしい。私の心の奥、ど真ん中を揺さぶるのだ。美しい靴は、ただただ、美しい。見ているだけで幸せになるし、それを履いた自分の脚を見るのも好きだ。

ビヘイビアデザイン
ユーザビリティと言い換えた場合、「歩きやすさ」をゴールとした場合、これはほとんど達成されていないと言って良い。もちろん他のハイヒールより歩きやすいハイヒールはあるにはあるが、スニーカーと比べたらまったくもって雲泥の差だ。しかし、ハイヒールを履くとき、ユーザとして私が達成しようとしているゴールは、「歩きやすさ」ではなく「いい気分になる」という点にある。ユーザビリティはほとんど無視している。

リフレクティブデザイン
ハイヒールを履いて背筋を伸ばして歩くことは、私の自己イメージの形成に役立っている。人がどう見るか、というよりも、自分で自分を好きになれるかどうか、というところに重きを置いている。

3つのデザインレベルのバランス

私にとって、美しいハイヒールは多少歩きづらくても欲しくなってしまう。場合によってははけなくても、歩けなくても、愛でるためだけに買うこともある。もし、私が買った美しいハイヒールが、ユーザビリティを向上させるために太いヒールに置き換えたモデルを出したら、おそらく私は買わない。細くヒールだから欲しいのだ。このとき私はユーザとして、本質的な部分とリフレクティブな部分を重視していて、ユーザビリティは重要視していない。

しかし、日常使いの仕事用のヒールは太くて低くても仕方ないな、と思う。たくさん歩く日にはローヒールを履く。多少醜くても、ユーザビリティを優先している選択だ。

デザイナーとして、ユーザが求めているものはなんなのか、どのようにこの3つのデザインのバランスを取るのかを考えることは、デザインをする上で忘れてはならないな、と思う。

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