見られて恥ずかしいと思っていた
たわいもない会話をしているときに、私のことについて話をしたことがあった。
「私は他人軸で生きてきたから、自分軸で生きれるように頑張っている」という話をしたら、「誰にだって他人に合わせないといけないことはあるし、他人のためにしたことで喜んでもらえるって価値あることなんじゃないの?」と言われた。
私が思っている他人軸とちょっと違う。
でもその違いを相手に説明しようと思っても上手く説明できない。
自分が思っていること、考え方を好きなように話したらいいのに、言葉がなかなか出てこない。
言葉がスラスラ出てこないのは、日々の自分の感情に向き合い方がまだまだ足りないからなのだろうか。
その方と私の明らかな違いは、誰を優先するかだ。
その方は自分を最優先にしている(わがままとは違う)。
私は他人を最優先にしている。
以前記事にも書いたけれど、自分を犠牲にしてまで、他人を優先する必要はないのだ。
もともと自分軸で生きてきた方に、私の思いを説明するのはなんとも難しい。だって考えなくても無意識に自分軸で生活できているのだから。
〇会話後のもやもやした感情〇
会話した後、私の中には恥ずかしいような後悔のような感情が生まれた。
言葉が出なかったことが恥ずかしいのではなくて、こころの中を見られたことに対して。
いつからか「こころの中を見られること=弱みを握られる」と思っていた。
弱みを見せてしまった!なんで打ち明けちゃったんだろう!恥ずかしい!という思いがふつふつと沸いてくる。
弱い部分は誰にでもあるし、それに対して付け込んでやろうなんて考える人にはそもそも心を開かないだろう。
「こころの中を見せる=弱み」という考え方がすでに間違っている。
こころの中を見せるということは、わたしはこんな考え方を持っています、わたしのマニュアルはこんな感じです、って相手に知らせる手段なのだ。
ちゃんとこころの中を見せる(言葉で表現できる)人こそ自分軸で生きている人ってことに繋がるのではないだろうか。
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