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MOROHA

MOROHAの音楽にハマった。きっかけは、伊集院さんが深夜のラジオで7月15日の回から3週にわたって紹介していたこと。音楽、しかも日本語ラップに関して伊集院さんがこんなふうに紹介するのはめちゃくちゃ珍しいことで、わたしもオンエアされた曲が気になってあれこれ聴いていくうちに、どんどん引っ張られていった。とにかくこう…引力がすごかった。

夜、気軽な気持ちで聴き始めて、ボッコボコに打ちのめされてしまった。

どうか聴いてください お願いします

MOROHA(モロハ)は、MCのアフロとギターのUKによるデュオ。まず、ギター1本にラップという形態が音楽としてまったく聞き慣れないスタイルでショッキングなんだけど、そのうえとにかくギターのビートの刻みかたがめちゃくちゃ巧いのだ。トラックとしての物足りなさが全然なく、これなら完全にラップいけるなみたいなカッコよさだった。

そして何より、MCアフロのマイクから溢れ出してくる言葉のパワーにやられる。ささやくようなソフトトーンからがなり立てるようなハイテンションまで、それはまるでラップというよりポエトリーリーディング、演説、プレゼンテーションの域。

わたしはこれまで日本語ラップに全然ハマったことがなくて、それは海外からの借り物のイントネーションに当てはめた日本語(いわばラップ風の発音と表現)がどうしてもカッコいいと思えなかったからなんだけど、MOROHAのラップは日本語として自然に聞こえて、背伸びせず取り繕わず、日本語だからこそカッコよく、響く表現になっていると感じた。

胸倉を掴むようにドアノブに手をかける
引いて開く扉なんざもう二度と選ぶな

MOROHAの音楽が語るのは、彼ら自身の物語だ。それは昭和63年生まれのアラサー青年のリアルな日常の物語であり、成功を夢見る若手アーティストの物語であり、マイク1本とギター1本で食べていこうという極めて特異な人生を選んだ男たちの物語。それは当然、誰にでも当てはまる普遍的な物語ではないはずだし、世代も立場も目標も違う聴き手が共感できるものにはならないはず。

……なのに、なぜか自分の物語として立ち現れてくるのだ。おそらくは嘘偽りのないアフロの自省の言葉は、間違いなく彼自身に向けられた刃なのだけど、それが聴いている自分にもムチャクチャに刺さる。それは時に青臭く、純粋すぎるほどの純粋な言葉の数々。でも正直、そのように一歩引いて評することすら許さないような距離感でもって、肩をガッシリ掴んできて、目を逸らせようとしないのがMOROHAの音楽なのだ。覚悟が要るよこれは。

三文銭』は、2013年、憧れのフジロックのステージに立てなかったことを歌った曲。世の中のほとんどの人がそうであるように、私も別に今までフジロックに出たいと思ったことは一度もない。ないんだけど、聴いているうちに彼らの私小説の世界に引き込まれ、途中から実際のライブ映像とクロスオーバーするなかで、いつの間にか自分がただの傍観者から当事者になっていることに気づく。この曲がイカれた奴やブッ飛んだ奴へのメッセージではなくて、普通の、まっとうな人間へのささやかな賛歌であることを知るからだ。

あるいは『上京タワー』は、長野の田舎から上京してきたアフロとUKの私小説的ストーリーがより色濃く反映されている作品かもしれない。彼らはその作品を普遍的な「ユア・ストーリー」として出してくるような傲慢な態度は取らない。自分の言葉で、自分の物語として語ることでこそ共感を得られることを知っているのだろうと思う。

「やりたい 」「やってた」じゃなく「やってる 」
進行形以外 信じない
真っ暗闇の未来に描き殴る
蛍光ペンを求めて
半径0mの世界を変える
革命起こす幕開けの夜

MOROHAは今年2019年の5月にニューアルバム『MOROHA IV』が発売されたところ。わたしの利用しているGoogle Play Musicにもあったので、先日から度々聴いています。出先で聴いたりもしてみたんだけど、心の用意ができていないと予想以上にぐいぐい来るので気をつけて。

五文銭』のMVは、これまでの連作のMVと同じく後半でライブ映像とクロスフェードする演出があるんだけど、リリックのなかにメタ的な言及があって熱い。目をむいてがなり立てるアフロの覚悟は本物だと思う。人生そのものを作品にすることは茨の道であり、そして創作とは永遠の問いだ。

どこへ?なぜ?どうして?
何をもってそこまで?
いつまで?誰の為?なんの為に?

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