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限界なので仕事辞めます!!

 お疲れ様です。エポナです。
毎日暑いですね。 

 先日つぶやきに書いた通り、6年目となる現在の職場を退職することにしました。といっても人手不足なのですぐには辞められません。上司には遅くとも12月いっぱいで退職したいと伝えてあります。了承してもらえました。

 これまでのざっくりとした経緯と医療従事者の労働環境、仕事との付き合い方などを雑記として書いておきたいと思います。やや長文になります。



1. 今までの経緯

 私は現在看護師10年目です。新卒で入職した病院で4年勤務し、離婚をきっかけに転職して今の職場に来ました。当時は「早く次の職場を決めなくては」という焦りが強く、地元の市民病院ならどこでも良いと思っていたのでリクルート会社に言われるがまま深く考えずに決めてしまいました。当然ながらこれが大間違い。戻れるなら当時の自分を引っ叩きたいです。いざ入ってみたら常に人手不足でバタバタ、既卒Nsの寄せ集めといった感じで看護の質も低いし給与も周辺の病院より低めでした。これはやばいぞ…と思ったものの、すぐに転職したらキャリアに傷がつきそうで結局ダラダラ続けてしまいました。

 途中で病棟勤務→訪問看護へと移動したものの、組織の根本的な体質は変わりません。お昼ご飯は運転しながら菓子パンをかじるしかなくトイレに行く暇もありません。24時間対応なので呼ばれれば夜中でも訪問、翌日は普通に日勤です。患者さんたちの笑顔と感謝の言葉のみを糧にここまでやってきました。

 万年人手不足の職場(=スタッフの離職率が高い職場)は高いマージンを払って求職案内を出しているわけですね。ですからリクルート会社がしきりに勧めてくるということはなかなかスタッフが定着しないブラック企業である可能性が高いです。当たり前すぎで本当に馬鹿馬鹿しいのですが、自分が経験してみてようやく「こうやって新たな被害者が生まれていくんだなぁ」と理解できました。

 申し訳ないのですがリクルート会社が全く信用できなくなってしまったので(あまりの鬼電にも辟易とするし)、次は自分で情報収集をして職場見学に行き、肌で雰囲気を感じてから決めようと思います。それでも失敗する可能性はありますけどね。


2. 医療従事者に求められるものと労働環境について

 医療従事者の仕事には大きな責任が伴います。人の命を預かる仕事ですから当然です。看護師は医師のように診断を下したり手術をすることはありませんが、看護行為の中にも一歩間違えば命を奪いかねないものがたくさんあります。ある程度は慣れと経験則でカバーできますが、常にピリッとした緊張感は保つ必要があります。

 まぁここまでは医療従事者ではない方でもあらかた予想できるかと思います。でも実は同じくらい大変なことがあるんです。それは「感情労働である」ということ。

 一般的な会社の顧客や取引先であれば、円滑に取り引きができるよう言動に気を使い、相手の機嫌を損ねないように注意しますよね。ところが私たちが相手にしているのは「患者さん」なんです。つまり心身に何らかの疾患や障害を抱え、体調が良くない人たちを相手にしているんですね。体調が悪い時に相手に愛想を振りまける人は多くありません。初めましての瞬間から相手は不機嫌であることが普通です。そこから痛い処置や制限の多い入院生活となるわけですから、当然患者さんのフラストレーションは高まっていきますよね。絶望、怒り、恨めしさ、孤独、痛み、喪失感、自責の念、後悔、懺悔、恐怖。患者さんは実に様々なものを抱えて過ごしています。医療従事者はそれを受け止める必要があります。

 医療従事者と患者は対等な立場であり、チームメイトとして一緒に治療を行っていくという考え方はかなり前から浸透しつつあります。でも患者さんは「患者」であり医療従事者は「健常者」なんですよ。多くの場合ですがね。すると健常者である私たちが患者さんに寄り添うのは至極当然のこととされます。寄り添うこと、共感すること、優しく手を差し伸べること。それを強制されるのが医療従事者なんです。

 「そういうことがしたくて医療従事者になったんだろ?」と思われるかもしれません。でも考えてみてください。上記のような感情は自発的に生まれてくるものではありませんか?目の前の人が転んだら思わず「大丈夫ですか?」と駆け寄るような自然発生的な感情であるべきで、誰かに強制されるべきではないと思うのです。少なくとも私は自然とそのような感情が湧き上がるように、なるべく患者さんの置かれた境遇を想像して感情移入するようにしています。冷静沈着に状態を分析するだけでは患者さんのニーズを満たすことはできないと考えているからです。しかしそれは多大な精神的疲労を伴います。

 では、このような医療従事者を抱える職場はどのような場所であるべきでしょうか。

 私が今回辞めることにした組織は、どんどん新規患者を受け入れる一方で経費削減のために新しい職員の雇用を禁止していましたし、年間休日数は少なく夏季休暇も0日、おまけに時給も低いのです。心や体を壊して休職したり突然蒸発した職員を何人も見てきました。適応障害になって辞めていった新人看護師は数え切れません。ここまで徹底的に搾取しておいてもっと質の良い看護を提供しろと言うのです。

 私は文字通りカラカラになりました。

 要領が悪いので期待された量の仕事はこなせなかったかもしれませんが、私が持っているものは全て提供しました。それでも日の目を見ることはなく、何度も何度も「もうダメだ」と思う瞬間を乗り越え、ついに退職を決意した次第です。エネルギーが完全に枯渇しました。

 毎日病院に泊まり込んでいる研修医の先生たちもそうですが、医療従事者にも人権があります。医療の質を底上げしたいのであれば、つまり医療従事者が自発的に「患者さんのために頑張ろう」と思えるようにしたいのであれば、患者さんと同じくらいスタッフを大切に扱わないといけません。カラカラになるまで搾り取られた人間から優しさや思いやりは出てこないのです。私は心の底からそう思います。


3. 生きることと労働


 人間が生命を維持するためには、食事をして代謝をして排泄することが必要です。でも労働することは生命維持に必須ではないですよね。「資本主義社会で生きていく」という社会的な意味合いであれば、労働の対価として賃金を得ることは必要かもしれませんが。

 毎日毎日憂鬱な気持ちで出勤して、帰ったらクタクタでやりたいことも思うようにできない。人間関係に翻弄され、時に深く傷つき、静かに蝕まれていく心と体。ちょっと大袈裟ですがこれでは一体何のために生まれてきたのか分かりません。私は早く定年を迎えたいと考えることがしょっちゅうでした。早く労働という義務が免除されるような年齢になりたいと、20代の頃から思っていたのです。

 看護師という仕事だからこそ得られた財産は計り知れないですし、以前も記事にした通り患者さんが命を懸けて教えてくれた死生観は貴重で大切な宝物です。今後も看護師として働くことには変わりないと思いますが、もう少し自分の心の正直になって働き方にこだわっても良いのかなと考えています。

 何ヶ所か気になる職場はあるのですが、正直なところほとんどノープランです。しばらくはあえてフリーター生活をしようとも考えています。心配性の私がここまで大胆になれたのはnoteを始めたことも大きく影響しています。マニアックな映画の感想や誰にも言えない想いをこの場所に綴って、顔も名前も知らない誰かが共感してくれる。好きなものは好きと言える勇気がいつしか嫌なものを跳ね除ける力になって、自分を守れるようになってきたのかもしれません。応援してくださる皆様には感謝しかありません。本当にありがとうございます。

 とりあえず残された期間は目の前の職務を全うしようと思います。踏ん張れるかな、、

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 最後までお読みいただき、ありがとうございました。






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