【841回】戸谷洋志「生きることは頼ること」
ハンナ・アーレント、國分功一郎、ハンス・ヨナス、エヴァ・フェダー・キテイ、ジュディス・バトラーの5名の哲学者をもとに5章に分けて、生きることは頼ることを語る。
自己責任論は、人々の分断を生み、その論を語る自身にも不都合な影響がある。
責任は誰かが背負うのではない。誰の責任だという個人の行為評価の発想を変えよう。誰のための責任なのかという捉え方にしよう。
例えば、目の前の子どもを安全に育むという責任なら、保護者だけの責任ではないはずだ。子どもを囲む人たちみなに責任を分担できる。保護者は、子どもを囲む人たちと責任をシェアできるだろう。
それが、頼ることではなかろうか。
保護者の例を続ける。
保護者が子どもを育むには、保護者が健康が大切だ。
では保護者は誰かに支えてもらえなければ、一人で育児を抱え続ければどうなるだろう。保護者が倒れたら、子どもを育む責任は果たせなくなる。だからこそ、保護者の代わりに、協力して子どもと関わる誰ががいる。同時に、保護者をケアする誰かが必要なのだ。
助けを求めることは無責任ではない。むしろ責任を果たそうとするからこそ、助けを求めるのだ。
なかなか読み応えがあった。読み終えて興奮している。自己責任論が苦手だから、暴力や差別につながる考えから離れたい。その根拠を探しているのだ。
責任はシェアだ。連帯できる。
例えば、この閉塞した社会でも、文化が引き継がれてきたように。誰かのために活動してきた人々の願いは、その誰かを守るという責任も引き継がれていいのだ。
学校でも、対話的な学びが広がっている。
社会でも、対話をもとに仕事をする人たちがいるだろう。
対話とは、対話に関わる人々をつなげる仕組みだと思う。
対話には目的があるだろう。その中には、何かの問題について対応するという責任が含まれている場合もあるはずだ。対話を通して、責任をシェアする。
なぜ、自己責任と言われ、一方的に攻撃される場面が生じるのか。
霧の中にいるような気持ちを抱える。
同時に、責任は連帯できる、委託できる。そのような考えを、頭に残して生きていきたい。