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聖書の教える真理

はじめに

あれをせよ、これをするな、そうやって人々を押さえつける教会を、私は間違いだと思っています。

けれどそれ以上に、信じるだけでよい、あなた方の天国行きは確定している、そう教える教会は、もっととんでもない間違いを犯していると考えます。

なぜならそれは、真理を教えていないからです。

教会は、真理を教え、人々が自らキリストに従いたくなるように導かなければなりません。

私にそれがうまくできるかどうかは分かりませんが、しゅが助けてくださることを信じます。

以前の私

私には、自分がしゅの救いにあずかっていると思い込んでいただけで、実はそうではなかった期間があります。

恐ろしいことですが、その期間中も、ずっと私には救いの確信がありました。

それがにせの確信だと知ったのは最近のことです。
ですから私はまだ、よちよちクリスチャンなのです。

実のところ、多くの方が、以前の私と同じように、にせの確信を握りしめたままでいます。そのことに今日、気づかなくてはなりません

熱くも冷たくもない

現代のほとんどのクリスチャンが、次の状態にあります。

ヨハネの黙示録
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう

口から吐き出そうとは、神の民から除外されるということです。御国みくにを相続できないということです。

たくさんの奉仕をし、たくさんの献金をしてきたかもしれません。しかし、それは救いには何の関係もありません。

また、「信じるだけでよいのではないか」と思われるかもしれません。しかし神様は、信じるだけの状態にある人を、果たして「熱い」と表現されるでしょうか。

上から目線でこう言っているのではありません。以前の私がまさにそのような危険な状態にあったので、お知らせしているのです。

「生ぬるい」とは何でしょう。

それは、真の悔い改めをしていない状態を指します。

真の悔い改め

ルカの福音書
13:3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。

皆さんもご存じのとおり、悔い改めなければ、滅びます

では、真の悔い改めとは何でしょう。

イエス様は次のように教えられました。

マタイの福音書
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい

悔い改めとは、単なる反省ではありません。

真の悔い改めとは、自分の思いを捨ててしゅに従い、御心みこころだけを行おうとすることです。

あなたはそうなっていたでしょうか。

捨てられない

自分の思いを捨ててしゅに従うなんて、何だか苦しい生き方のように思えます。そのような苦しい生き方は、十字架の恵みに反することだと教える人もいます。

それで私たちは捨てられないのです。

イエス様に従うことによって、楽しみが減り、不便になり、変人扱いを受け、人間関係が困難になり、生活に支障が出るのではないかと心配するのです。

うそをつく必要はありません。しかし認めなければなりません。
私たちはそこまでイエス様を好きではなかった、という事実をです。

ショックなことですが、まずは認めましょう。
私たちは、そこまでイエス様を愛してはいなかったのです。

まずは認めることが大切

今から愛せるようになれます

自分を捨てられなかったのは、イエス様のしてくださったことを本当には理解していなかったからです。

「いやいや、イエス様は私の罪のために十字架で死んでくださいました。そのことは知っています」そう言うかもしれません。

ところが、実際にはそれよりもはるかに大きな犠牲が支払われていたのです。

あなたの罪のために支払われた犠牲

まず、神であるその方が、人として地上に来られ、私たちと同じ肉体で三十年間も誘惑と戦われました。

私たちにこれができるでしょうか。

傷のない子羊としての犠牲を完了させるには、一つの罪さえ犯してはいけなかったのです。
少しでも自分のために生きるなら、すぐに失敗してしまうでしょう。
それでイエス様は、瞬間瞬間を私たちのためだけに生きられたのです。

まずはイエス様が、自分を捨てられたのです。
十字架の瞬間に、ではありません。人生のすべてにおいてです。

そうして一つの罪も犯されなかったその従順なお方が、私たちの汚らわしい罪をすべてその身に負われたのです。

この苦痛は、平気で罪を犯してきた私たちが罪を負うのとは、ぜんぜん違います
誰よりも罪を嫌ってきた方が、姦淫かんいんや殺人の罪を負ったのです。
一体どれほどの苦痛だったでしょうか。
そのとき、血の汗が地に落ちました。

そうして十字架を負い、自ら木に掛けられました。

そんな中、今度はご自身が救おうとされた人々から嘲笑されるのです。「本物なら十字架から降りてみろ」

もちろん、降りることはできました。けれど、しゅ私たちのために、最後まで耐えてくださったのです。

すべては、あなたを愛するがゆえ、あなたを天に来させるためだったのです。

このことを本当に理解したとき、あなたの中に、何か捨てられないものが残るでしょうか。

ヘブル人への手紙
9:14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか

だまされないでください

イエス様のために生きることは、決して不幸な生き方ではありません

本当に不幸なのは、なくなるもののために生きることです。死ぬ間際になって、むなしい生き方をしたものだと嘆くことです。

誰にもだまされないでください。しゅとともに生きることこそ、人にとって最善の生き方です。充実と幸せに満ちた生き方です。

これを知っている人たちは、けっして苦しんでしゅに従っているのではありません。愛のゆえに、喜んでそうしているのです。

すると今度は、「何も楽しんではいけないのか!」と考える人がいます。

そんなことは誰も言っていません。子供たちが楽しんでいるのを喜ばない親がいるでしょうか。

私たちの霊的な歩みを妨げるものを捨てればいいのです。神より優先されるもの、偶像となるもの、悪影響を及ぼすものを捨てるのです。良いものまで捨てる必要はありません。

おわりに

本来のクリスチャンがすべき生き方をしている人が、異様なほどに減っている時代です。かつてないほどに不信仰で、世俗的な時代です。まるでしゅに従うことが不幸なことであるかのように、クリスチャン自身が思い込み、世にそのことをふれ回っているのです。

立ち返りましょう。
自分を捨てて、十字架を負い、しゅに従うことが喜びであることを世に示しましょう。
本来の教会の姿を、働きを、従順を、回復しましょう

生ぬるい教派の教えを捨てて、聖書を読み直してみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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