見出し画像

サタンの策略と大患難

はじめに

最近、病院の待合室で久々にテレビを見て、ある違和感を感じました。

お昼の情報番組だったのですが、司会者もコメンテーターも、どこか気をつけてしゃべっているように感じられたのです。

ああ、そうかと思いました。
下手なことをしゃべると、SNSを通して誹謗中傷を受けるからです。

いつの間に、人はこんなにも攻撃的になってしまったのでしょうか。
なぜ、人はこんなにも寛容さを失ってしまったのでしょうか。

どちらの町に住みたい?

客観的に考えてみましょう。

二つの町があったとします。

一つは、寛容な町
誰もが寛容で、人の意見に目くじらを立てるような人は誰もいません。

もう一つは、不寛容な町
互いに落ち度がないかを見張り合っていて、もしあれば町の掲示板にさらされるのです。

あなたはどちらの町に住みたいですか?

寛容な町に住みたい。誰もがそう答えると思います。

それなのに、どうして私たちは不寛容な町の住民になっているのでしょうか。

どんな町に住みたい?

預言の成就

霊的な観点で見るなら、これは聖書の預言の成就です。

第二テモテ
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者融和しない者そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。

これを加速させたのが、インターネットです。
今や私たちは、自分の名前は明かさずに、相手の名前だけをさらして、人を攻撃できるようになりました。

これを可能にしたのが、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)という技術です。

World Wide Webは1950年前後にその起源をもち、1989年に欧州原子核研究機構 (CERN) のティム・バーナーズ=リーによって発明された。1990年後半にその発明は実装され、1990年12月20日に世界初のウェブページが公開された。その後各国でウェブページが続々と公開され、ビューアー(webブラウザ)の普及やプロトコルの仕様策定を経ながら爆発的に広がり、現在に至る。

ウィキペディア

この技術は、欧州原子核研究機構、通称CERN(セルン)によって開発されました。以下の、「6」を三つ合わせたようなマークが、CERNのロゴです。

ちなみに、「w」はヘブライ語の「ו(ヴァヴ)」の文字に当たり、これは数字の「6」を表します。すなわち、WWWはヘブライ語に変換すると、「666」を表します。
これらは、発明者が誰に属するかを明確に表しているのかもしれません。

それはそれとして、この発明によって私たちの生活や品性が大きく変化したことは言うまでもありません。

サタンの計画を侮るなかれ

聖書に書かれた竜の存在、すなわちサタンの存在を忘れ、侮ることは、私たちを眠らせてしまうことになります。

どうか目を覚ましてください。そして、あらゆる事態に心の備えをしてください。

マルコ
13:19 その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。
13:20 もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。

この聖句に、本当に大切なことが隠されています。
よくよく目を覚まして、考えてみてください!

「主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう」とあります。

気がつきませんか?

私たちは、大患難を「迫害によって多くの聖徒が殺されること」だと思わされています。

大患難の中で殺された聖徒は、救われないのでしょうか?

そんなことはありません。むしろしゅのために死ぬなら、必ず救いにあずかでしょう。

では、「救われる者はひとりもないであろう」とは何でしょうか。

救われる者は一人もないとは

黙示録
9:18 この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。

「救われる者はひとりもないであろう」とは、敵の口から出る言葉によって、私たちが永遠の命を失ってしまうことです。

もちろん断定はできませんが、大いに可能性はあります。聖徒を殺していくだけなら、多くの人が殉教者として救いを得るでしょうから。

それよりも恐ろしい可能性に目を開いてください。

もし敵の策略によって、私たちが「寛容な町の住民」とならずに、「不寛容な町の住民」となるならどうでしょう。

──救われる者は一人もいなくなります

イザヤ
1:21 かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった

見てください。本当に、今や人殺しばかりです。霊的エルサレムと呼ばれるべき私たちは、サタンの策略によって、今やソドムやエジプトのようになっているのです。

サタンの実と御霊みたまの実

大言壮語する者、高慢な者、無情な者、融和しない者、そしる者、粗暴な者、高言をする者。これらはすべて、サタンの性質です。

竜の策略によって、私たちはまるで御霊みたまの実に反するかのように、サタンの実を結びつつあるのです。

ガラテヤ
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

私たちが実らせるべき実は、このようなものです。

マタイ
7:19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。

ヨハネ
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

私たちはどうすべきでしょうか。

エペソ
5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。

注意喚起と裁きの違い

聖書はこう教えています。

ルカ
6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

また、こうも教えています。

ルカ
17:3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。

裁いてはいけません。しかし、注意喚起はすべきです。

というのも、敵の口から、にせの教えが出ているからです。これもまた、私たちの救いを奪う、敵の策略のもう一方の面なのです。

「注意喚起」と「裁き」。この区別はとても難しいですが、それでも、ぜひ挑戦してください。これは必要なことだからです。

注意喚起とはどのようなものでしょう。

注意喚起とは

一言で言えば、愛をもって接することです。

税金をだまし取っていたザアカイに対し、しゅは叱責することなく、ともに食事をしたのです。おそらくその食事の席で語られたことは、裁きの言葉ではなく、聖書の真理だったことでしょう。それでザアカイは悔い改めたのです。

大切なのは、あなたの正しさが証明されることではありません。相手を悔い改めの心に導くことです。

そして、それはあなたの力では絶対にできません。しゅがあなたを用いて、なされることです。
ですから、しゅ御心みこころに沿っているか、それを確認することが一番重要なことです。

あなたの心に、少しでも相手をやっつけたいと思う心があるなら、思いとどまってしゅに告白してください。それは暴走だからです。しゅが用いられることはないでしょう。

このことで、私自身、何度も失敗しています。
そしてSNSを見る限り、多くの人が同じ失敗をしています。

愛がなければ意味がありません。暴走するなら、私たちばかりか、相手までもサタンの実を結ぶことになってしまいます。

今や悪意が悪意の連鎖を生み、もはや手が付けられなくなっています。
これが続くなら、本当に救われる人は一人もいなくなるでしょう。

おわりに

冷静になって周りを見てください。
人が人に敵対するネタを、サタンはこんなにもばらまいているではありませんか。

その策略に乗って、人殺しとなっていいのでしょうか。

第一ヨハネ
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない

「もししゅがその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう」という大患難は、もう来ているかもしれません。実際、多くの人が人殺しとなり、永遠の命を失っています。

一見寛容に見える人でも、自分の聖書理解と違うというだけで、人を憎み、人殺しとなっています。

自分の意見と違っていることが、そんなにもゆるせませんか?

大切なのは、愛を実践し、真理を伝えることです。
そのためにも、私たちはもう一度、聖書の教える愛を確かめてみなければなりません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)

こちらの記事も参考にどうぞ。