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一致という罠

はじめに

昨今、多くの教会で「一致」が叫ばれており、それはまるで美しい響きのように歓迎されています。

けれど、私たちはこの「一致」に気をつけなければなりません。

イエス様の時代を思い出してください。
対立していたはずのパリサイ派とサドカイ派が一致して、どうなりましたか?

真理を攻撃したのです。

すべての一致が正しいわけではありません。
聖書の教える一致とは何か、慎重に確認してみましょう。

イエス様が来た理由

イエス様は何のために来られたのでしょうか。

しゅご自身、次のように言っておられます。

ルカの福音書
12:51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である

イエス様は、分裂のために来られました。
イスラエルの家の失われた羊の所へ来て、偽りの教えに捕らわれていた霊たちに真理べ伝え、彼らをより分けたのです。

ヨハネの福音書
18:37 ──わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。

真理 vs 偽りの教え

もしイエス様が「それぞれの教えを尊重しよう。皆が同じように信じる必要はないのだから」と言ったなら、一体誰が真理を悟ることができたでしょう。

そうではなく、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない(マタイ23:13)」と言ったところに、愛があるのです。

しゅがこう言われたのは、すべての人が救われて、真理を悟るに至るためでした。

テモテへの手紙 第一
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる

真理を悟るには、主流派の教えから脱出する以外になかったのです。

それなのに、人々はこの呼びかけをあざ笑い、分離あずかろうとはしませんでした。

マルコの福音書
15:31 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。
15:32 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

偽りの一致

パリサイ派とサドカイ派の一致が真理を攻撃したように、教派の一致、宗教の一致は、必ず真理を攻撃するものになるでしょう。

「聖書はそれぞれが自分に合った教えを受け取るものです」
「これだけが正しいという主張は身勝手です」
こういった言葉は、まるで愛があるように聞こえるかもしれませんが、
イエス様の愛とはぜんぜん違うものです。

とはいえ、この偽りの一致は、聖書に預言されたものであり、阻むことはできません。
私たちにできるのは、そこから離れ去ることだけです。

ヨハネの黙示録
18:4 わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ

本当の一致

聖書は、次のような一致だけを求めるように教えています。

エペソ人への手紙
4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

ピリピ人への手紙
2:2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。

同じ信仰、同じ知識、同じ愛の心、同じ思い
すなわち、ただ一つの真理によって一致すること。
これこそが、聖書の教える、唯一の「一致」です。

「異なった教理を尊重し合いましょう」という教えは、一見すると人道的で、美しく思われるかもしれませんが、その実、真理を破壊する行為です。

むしろ、皆から嫌われてでも、真理を守り通す人こそ、本物だと聖書は教えます。

マタイの福音書
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

私たちは、真理を世に伝える、地の塩です。
誰も真理を語らなくなったとき、もはや真理は永久に失われてしまうことを覚えてください。

おわりに

今後ますます「一致がないなら、それは本物ではない」とか、
「一致を阻む者はサタンの手先だ」と言われるようになるでしょう。

マルコの福音書
13:12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

ある人は、すでに兄弟からの無関心によって、実質的に殺されているかもしれません。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

私たちはどんな相手をも、ゆるし、愛し、祝福できるのです。
ですから、けっして妥協せず、真理の回復に努めましょう。

すべての教えは、「それは聖書のどこに書いてあるの?」と問われ、明らかにされなければなりません。

ときには、自分のほうが間違いを認めて、考えを改める必要もあるでしょう。
そういった態度は、真理を学ぶ上で、とても大切です。
私も、これまでにたくさんの間違いを認めて、考えを改めてきました。

「様々な方法で神をあがめればいい」というにせの一致には、極力注意を払う必要があります。

なぜなら聖書は、その行為を姦淫かんいんと呼び、
その一致を「大淫婦バビロン」と呼んでいるからです。

ヨハネの黙示録
17:1 それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。
17:2 地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。

本当の一致とは何か、もう一度聖書から学び直す必要があります。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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