やさしく解説「ローマ人への手紙」
はじめに
「ローマ人への手紙」は、信仰の基礎を学ぶ上でとても重要な書です。
ところが、この書は読む人によって、全く違った理解を与えます。
ある人は、律法が無効になったことを確信し、またある人は、律法が無効になっていないことを確信します。
パウロの伝え方が下手なのでしょうか。
しかし、彼に書かせたのは神です。
この現状について、ご一緒に聖書から確認してみましょう。
ここでは、メインテーマだけを扱います。
「ローマ人への手紙」のメインテーマは、「いかにして義とされるか」です。
読む人に真逆の結論を出させる書
ある人には「律法が無効になった」と確信させ、またある人には「律法が無効になっていない」と確信させる。
この不思議な分離については、イエス様の発言がヒントになります。
驚くことに「ほかの人たちに悟られないため」とあります。
また、こうもあります。
救われてほしくない人がいるのでしょうか?
いいえ。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる(第一テモテ2:4)」とあります。
ではなぜでしょうか。
それは、神を愛してもいないのに、ただ自己の欲から御国に入ろうとする人々がいるからです。
そのような人には、真理が理解できないようになっているのです。
理解する前提(その1)
「ローマ人への手紙」を理解するためには、主を否定しないことです。
パウロはこのことに同意した上で、手紙を書いているのです。
これをけっして忘れてはいけません。
(神の律法と、モーセ律法の区別がつかない方は、先に以下の記事をお読みになることをお勧めします)
理解する前提(その2)
「ローマ人への手紙」を理解するためには、聖書の忠告を聞くことです。
パウロの手紙には「理解しにくいところ」があると聖書は警告しています。曲解して滅びを招く人たちがいるというのです。
ペテロやヨハネ、ヤコブといった人々は、この曲解を防ぐために、真理を分かりやすく補完してくれています。
滅びないためにも、それらの聖句と見比べることがとても重要になります。
理解する前提(その3)
「ローマ人への手紙」を理解するためには、予備知識が必要となります。
最低でも、罪とは何か、義とは何かを知っておいてください。これを知らないでは、正しい理解は得られません。
義とは何でしょう。
モーセは民の前で十戒を読み上げて、こう言いました。
これは「ローマ人への手紙」にもでてきます。
では、罪とは何でしょう。
罪は義の対極にあります。
罪とは、律法に違反すること。
義とは、律法を守り行うこと。
この二つの知識がなければ、けっして聖書は理解できません。
ここでの律法とは何か
「ローマ人への手紙」において、律法は焦点となりますが、ここでの律法とは何でしょうか。
姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな──これは十戒です。
「ローマ人への手紙」に書かれた「律法」とは、神の律法である十戒のことなのです。
神の律法は無効になったのか
先に結論を見てみましょう。
神の律法は無効になったと書いてあるでしょうか。
無効になっていません。意外にもはっきりと書いてあります。
当然ですが、これはイエス様が言われたことと同じです。天地が滅び行くまでは、神の律法の一点一画も廃れないし、一つも破ってはいけない、これは聖書の一貫した教えです。
それでも、律法を守りたくない人には、無効になったと読めてしまうのです。
自分の考えを手放さないでは、人は何も見えなくなってしまうという証拠です。
いかにして義とされるか
十戒を守り行うこと、それが聖書の教える義です。
では、私たちは、どうやって義とされるのでしょうか。
これが「ローマ人への手紙」の中心となる聖句です。
つまり、人が十戒を守り行えるようになるのは、自力で律法行うことによるのではなく、信仰によると言っているのです。
これこそが、聖書に繰り返し書かれている「恵み」です。
恵み
この恵みは、行いによって得られるのではありません。
しかし注意してください。
十戒を守り行えるようになること、それが恵みなのです。
「行いによるのではない」という言葉を曲解して、十戒を守り行わないなら、この恵みを捨ててしまうことになります。
これについて、ヨハネは次のように補完しています。
ヤコブは次のように補完しています。
恵みを受けた人は、必ず義を行うようになるのです。
そうなっていないなら、恵みを受けていません。
義人はいる、たくさんいる
ローマ人への手紙には、「多くの人が義人とされる」と書いてあります。
義と義認を混同する人は、「これは義を行う人のことではなく、義と認められた人のことだ」と言うでしょう。
それを正すために、ヨハネは次のように補完してくれています。
義を行う人が、義人です。
信仰によって、私たちは義人になれるのです。
律法からの解放
「解放」この言葉は、多くの曲解と滅びを生んできました。
神を愛さない人には、「律法を守らなくてよくなった」と読めるようにできているのです。
そうではありません。
律法からの解放とは、律法主義から解かれ、聖霊に心を書き換えていただくことです。
そうして神の教えが大好きになり、守らずにはいられなくなるのです。
罪の奴隷であった人が、今度は義の奴隷となるのです。
あなたは罪から解放されていたでしょうか。
おわりに
神を愛しておらず、ただ天国に行ければそれでいいという人には、悟られないように聖書はできています。
神を心から愛し、その掟に服従し、キリストが私たちを義人にしてくれると信じる人だけが、救いに与ることができるのです。
初代教会は、まさにそのような人たちの集まりでした。
信じる人には、恵みが待っています。
間違った理解を手放し、へりくだって聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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