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やさしく解説「ローマ人への手紙」

はじめに

「ローマ人への手紙」は、信仰の基礎を学ぶ上でとても重要な書です。

ところが、この書は読む人によって、全く違った理解を与えます。
ある人は、律法が無効になったことを確信し、またある人は、律法が無効になっていないことを確信します。

パウロの伝え方が下手なのでしょうか。
しかし、彼に書かせたのは神です。

この現状について、ご一緒に聖書から確認してみましょう。

ここでは、メインテーマだけを扱います。
「ローマ人への手紙」のメインテーマは、「いかにして義とされるか」です。

読む人に真逆の結論を出させる書

ある人には「律法が無効になった」と確信させ、またある人には「律法が無効になっていない」と確信させる。

この不思議な分離については、イエス様の発言がヒントになります。

ルカの福音書
8:10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないためにたとえで話すのである。

驚くことに「ほかの人たちに悟られないため」とあります。

また、こうもあります。

ヨハネの福音書
12:40 「しゅは彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

救われてほしくない人がいるのでしょうか?

いいえ。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる(第一テモテ2:4)」とあります。

ではなぜでしょうか。

それは、神を愛してもいないのに、ただ自己の欲から御国みくにに入ろうとする人々がいるからです。
そのような人には、真理が理解できないようになっているのです。

理解する前提(その1)

「ローマ人への手紙」を理解するためには、しゅを否定しないことです。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

パウロはこのことに同意した上で、手紙を書いているのです。
これをけっして忘れてはいけません。

(神の律法と、モーセ律法の区別がつかない方は、先に以下の記事をお読みになることをお勧めします)

理解する前提(その2)

「ローマ人への手紙」を理解するためには、聖書の忠告を聞くことです。

ペテロの手紙 第二
3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

パウロの手紙には「理解しにくいところ」があると聖書は警告しています。曲解して滅びを招く人たちがいるというのです。

ペテロやヨハネ、ヤコブといった人々は、この曲解を防ぐために、真理を分かりやすく補完してくれています。
滅びないためにも、それらの聖句と見比べることがとても重要になります。

理解する前提(その3)

「ローマ人への手紙」を理解するためには、予備知識が必要となります。

最低でも、罪とは何か、義とは何かを知っておいてください。これを知らないでは、正しい理解は得られません。

義とは何でしょう。
モーセは民の前で十戒じっかいを読み上げて、こう言いました。

申命記
6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。

これは「ローマ人への手紙」にもでてきます。

ローマ人への手紙
2:13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

では、罪とは何でしょう。
罪は義の対極にあります。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

罪とは、律法に違反すること。
義とは、律法を守り行うこと。
この二つの知識がなければ、けっして聖書は理解できません。

ここでの律法とは何か

「ローマ人への手紙」において、律法は焦点となりますが、ここでの律法とは何でしょうか。

ローマ人への手紙
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

姦淫かんいんするな、殺すな、盗むな、むさぼるな──これは十戒じっかいです。
「ローマ人への手紙」に書かれた「律法」とは、神の律法である十戒じっかいのことなのです。

神の律法は無効になったのか

先に結論を見てみましょう。
神の律法は無効になったと書いてあるでしょうか。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。

無効になっていません。意外にもはっきりと書いてあります。

当然ですが、これはイエス様が言われたことと同じです。天地が滅び行くまでは、神の律法の一点一画も廃れないし、一つも破ってはいけない、これは聖書の一貫した教えです。

それでも、律法を守りたくない人には、無効になったと読めてしまうのです。
自分の考えを手放さないでは、人は何も見えなくなってしまうという証拠です。

いかにして義とされるか

十戒じっかいを守り行うこと、それが聖書の教えるです。
では、私たちは、どうやってとされるのでしょうか。

ローマ人への手紙
3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

これが「ローマ人への手紙」の中心となる聖句です。

つまり、人が十戒じっかいを守り行えるようになるのは、自力で律法行うことによるのではなく、信仰によると言っているのです。

これこそが、聖書に繰り返し書かれている「恵み」です。

恵み

ローマ人への手紙
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

ローマ人への手紙
11:6 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。

この恵みは、行いによって得られるのではありません。

しかし注意してください。
十戒じっかいを守り行えるようになること、それが恵みなのです。

「行いによるのではない」という言葉を曲解して、十戒じっかいを守り行わないなら、この恵みを捨ててしまうことになります。

これについて、ヨハネは次のように補完しています。

ヨハネの手紙 第一
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

ヤコブは次のように補完しています。

ヤコブの手紙
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

恵みを受けた人は、必ず義を行うようになるのです。
そうなっていないなら、恵みを受けていません。

義人はいる、たくさんいる

ローマ人への手紙には、「多くの人が義人とされる」と書いてあります。

ローマ人への手紙
5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。

義と義認を混同する人は、「これは義を行う人のことではなく、義と認められた人のことだ」と言うでしょう。
それを正すために、ヨハネは次のように補完してくれています。

ヨハネの手紙 第一
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。

義を行う人が、義人です。
信仰によって、私たちは義人になれるのです。

律法からの解放

ローマ人への手紙
7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

「解放」この言葉は、多くの曲解滅びを生んできました。
神を愛さない人には、「律法を守らなくてよくなった」と読めるようにできているのです。

そうではありません。

律法からの解放とは、律法主義から解かれ、聖霊に心を書き換えていただくことです。
そうして神の教えが大好きになり、守らずにはいられなくなるのです。
罪の奴隷であった人が、今度は義の奴隷となるのです。

ローマ人への手紙
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

あなたは罪から解放されていたでしょうか。

ヨハネの福音書
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である

おわりに

神を愛しておらず、ただ天国に行ければそれでいいという人には、悟られないように聖書はできています。

神を心から愛し、そのおきてに服従し、キリストが私たちを義人にしてくれると信じる人だけが、救いにあずかることができるのです。

初代教会は、まさにそのような人たちの集まりでした。

ローマ人への手紙
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

信じる人には、恵みが待っています。
間違った理解を手放し、へりくだって聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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