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本当のキリストの律法

はじめに

聖書には、キリストの律法という言葉が二度出て来ます。

コリント人への手紙 第一
9:21 律法のない人には──わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが──律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

ガラテヤ人への手紙
6:2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。

キリストの律法とは何でしょうか。
これを正しく知るなら、私たちは大きな恵みを得ることができます。

一般にキリストの律法といわれるもの

まずは、一般的にキリストの律法といわれるものを見てみましょう。

マルコの福音書
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

イエス様の教えられた第一の戒めと、第二の戒め。
これが、一般にキリストの律法といわれるものです。

これについて、イエス様はこう言っておられます。

ヨハネの福音書
13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

新しい?

実のところ、これはレビ記に書かれたことであって、新しくも何ともないのです。

レビ記
19:18 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

ではなぜ、すでに与えられていた戒めを、新しい戒めとして与えられたのでしょうか。

十戒じっかいとモーセ律法は違う

先にこの誤解を解いておかなければなりません。

多くの人は、十戒じっかいを、モーセの時代に与えられた律法だと勘違いしています。石の板に書かれた十戒じっかいをモーセが受け取るシーンがあまりにも印象的だからです。

しかし、十戒じっかいはモーセの時代に神様が思いついたものではありません。十戒じっかいは、罪とは何であるか、義とは何であるかを教える、永遠の指標なのです。

十戒じっかいの永続性については、イエス様が次のように教えています。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

殺すな、姦淫かんいんするな──
この律法は、モーセの時代より前から守られていました。

もちろん、モーセの先祖であるアブラハムも十戒じっかいを守っていました。

創世記
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめ(ミツヴァー)と、さだめと、おきて(トーラー)とを守ったからである」。

十戒じっかい永遠の律法であり、モーセ律法とは区別されます。
まずはこのことを覚えてください。

当然、弟子たちもそのように考えています。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。

十戒じっかいを作ったのは誰か

コロサイ人への手紙
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

十戒じっかいもまた、御子みこによって創られました。

御子みこ唯一の神であり、この方に従う人が、神の民なのです。

申命記
28:9 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。

神の民に危機が訪れる

イエス様の時代、十戒じっかいを守り行う人が一人もいなくなるという事態が起こりました。

ヨハネの福音書
7:19 モーセはあなたがたに律法(十戒じっかい)を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。

外面的な律法主義が蔓延し、心の中で罪が犯されるようになっていたのです。

心の中で殺人を行うなら、それは神の民ではありません。
それでイエス様は、次のように言われました。

マタイの福音書
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない

新しい戒め

本当の愛がなければ、けっして律法は全うできません。
これをイエス様は「新しい戒め」と表現されました。

神の律法は、愛によってのみ全うされるのです。

ローマ人への手紙
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである

愛がなければ、それは憎しみにつながります。
そのような人は永遠の命をとどめてはいない、そう聖書は教えます。

ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。

偶像を拝みながら神を愛することはできません。殺したり盗んだりしながら人を愛することはできません。

十戒じっかいとキリストの律法は同じものだからです。

真実の愛をもって心の中においても十戒じっかいを守ること
それが「新しい戒め」であり、「キリストの律法」なのです。

おわりに

キリストの律法とは何か、おわかりいただけたでしょうか。

それは、心においても十戒じっかいを守ることであり、それによって愛が実践されるのです。

十戒じっかいの1~4を守ること、それが神を愛することであり、十戒じっかいの5~10を守ること、それが隣人を愛することなのです。

これを可能にしてくれるのが、新約です。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約(新約)はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法(十戒じっかいを彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

あなたはこの契約を受けて、神の民となっているでしょうか。
十戒じっかいへの服従なしに、この契約を受けることはできません。

正しく契約あずかるなら、私たちは常に愛の律法である十戒じっかいを思って生きることができます。
これはどんなにすばらしいことでしょうか。

詩編119:111~112
私はあなたのさとしを永遠に受け継ぎました。
これこそ 私の心の喜びです。
私は あなたのおきてを行うことに心を傾けます。
いつまでも 終わりまでも。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

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正しいのは、いつだって聖書だからです。

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