律法は律法ではない
はじめに
律法は律法ではない。どういう意味でしょう。
実のところ、ヘブライ語の「律法(トーラー)」という単語には、「律法」という意味は全くないそうです。
本来なら、「教え」とするのが正しいそうです。
「律法」と「教え」、確かに全然印象が違ってきます。
「律法」と言われると、決まりに縛られて、行動を監視されているようで、びくびくしてしまいます。
ところが、「教え」と言われるなら、やる気と感謝が溢れてきます。
トーラーとは何か
もしあなたが陸上選手だとして、「速く走るための教え」という本があったなら、喜んで飛びつくでしょう。そこに書いてあることに、自ら従おうとするでしょう。
それが「トーラー」なのです。
トーラーは、私たちを神の似姿に戻すための教えです。
完全とは何かを学ぶとき、私たちは完全を目指して走れるのです。
トーラーを学べば学ぶほど、私たちは神の似姿を回復していくのです。
トーラーは律法ではない
残念ながら「律法」という言葉で浸透してしまいましたが、本来トーラーには「律法」という意味はありません。
原語の意味は「教え」です。
主はトーラーが何を教えていると言っていますか?
トーラーの教えは、神を愛する方法と、人を愛する方法です。
これは「律法」なんかではありません。本来の私たちの姿を取り戻すための、教科書です。私たちを回復させるための、処方箋なのです。
弟子たちの認識
弟子たちは何と言っているでしょう。
主と同じです。
弟子たちはみな、この教えを愛しているのです。
一方、現代の私たちはどうでしょうか。
間違った神学によって、律法を嫌いにさせられてはいないでしょうか。
律法の役割
律法の役割は何でしょう。
律法を守って義とされようとすること。これは間違いであると聖書は教えます。
憎しみを起こすなら、それは殺人と同罪です。
情欲の目で人を見るなら、それは姦淫と同罪です。
妬みを起こすなら、それは隣人のものをむさぼることと同罪です。
厳しい水準ですが、まずは、この教えに同意し、服従しなければなりません。
あなたが神に忠実であろうとするなら、必ず、自分の力では律法を守れないことを悟り、苦しむときが来るはずです。
ハレルヤ! そのときこそ、本当の救いのときです。
そのようにして、私たちは救い主の必要性をはっきりと悟る必要があるのです。
これこそが、律法の役割です。
律法は、私たちにキリストの必要性を悟らせるための養育係だったのです。
キリストは、私たちを悔い改めさせるために来てくださいました。
この方の恵みによって、私たちは律法を守ることが可能となるのです。
おわりに
律法は律法ではありません。
これは私たちを回復させるための教えです。
陸上選手が「速く走るための教え」を恵みだと思うように、私たちも神の教えを恵みだと思えばいいのです。
この教えに従って歩むなら、私たちからキリストの必要性がなくなることはありません。
反対に、律法を無視して生きるなら、私たちはキリストを必要としなくなるでしょう。
律法を守る人も、守らない人も、これだけは覚えてください。
律法に違反することは罪であり、そのような人はキリストを知らないのです。
もう、律法を憎む必要はありません。
間違った神学を捨てて、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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