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「信仰による義」とは

はじめに

聖書には、二つの義が示されています。

一つは、救い主を必要としない義。「律法の行いによる義」です。
もう一つは、救い主を必要とする義。「信仰による義」です。

ところが、この言葉には誤解の余地があります。
まるで、律法を守るか、守らないかが問われているように錯覚することです。

けれどその錯覚を、パウロは明確に否定しています。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

「信仰による義」は、かえって律法を全うすることにつながるというのです。

これについて、ご一緒に聖書から確認してみましょう。

義とは何か

念のため、義とは何かを確認しておきましょう。

モーセは民の前で十戒じっかいを読み上げ、次のように言いました。

申命記
6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれのとなるであろう』。

神の律法である十戒じっかい、それを守り行うことが、です。

当然、使徒たちの認識も同じです。

ローマ人への手紙
2:13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

律法を守り行うことが、義
律法を守らない義、などという矛盾した教えは、聖書にはないのです。

どちらの義も、神の律法を全うすることが目的

「律法の行いによる義」も、「信仰による義」も、ともに神の律法を全うすることが目的です。

二つの義をもっとわかりやすく書くなら、「自分の行いで律法を全うする義」と、「信仰によって律法を全うする義」です。

二つの違いは、律法の全うの仕方なのです。

それを踏まえて、パウロの言いたかったことを読み取ってみましょう。

ローマ人への手紙
3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

すなわち、人が律法を全うするのは、自分の力によってではなく、信仰によってであると言っているのです。

「自分の行いで律法を全うする義」は、人には不可能。
「信仰によって律法を全うする義」を選びなさいというのが、聖書の教えです。

信仰による義を得る方法

信仰による義、それは行いによって求めず、ただ受け取る人に与えられます。

ローマ人への手紙
9:30 では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た
9:31 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。
9:32 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

これこそが、十字架の恵みであると聖書は教えます。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

あなたはこの恵みを受けていますか?
受けていないとしたら、それはなぜでしょうか。

【その1】神の律法に服従する心がないから

ローマ人への手紙
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

しゅは、心においても十戒じっかいを守るようにと、何度も教えてこられました。

ところが現代、間違った教えのせいで、多くのクリスチャンがしゅの教えを無視して生きています。

十戒じっかいに心から服従しないなら、罪からの解放はありません。
神の律法を守りたいと願わない人には、それは与えられないのです。

【その2】自力で律法を守ったことがないから

ガラテヤ人への手紙
3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

律法こそが、私たちをキリストに連れて行く養育係なのです。
これを自力で守ろうとするなら、必ず私たちは自分の中にその力がないことを知り、キリストの必要性を感じるはずです。

これこそが、律法の役割です。

律法に心から服従し、自分の力ではけっして守ることができないと悟ったとき、初めて私たちはキリストにすがることができるのです。

この経験なしに、魂の奥底からキリストを必要とすることはできません。

【その3】信じていないから

「罪を離れ、義に生きられるかもしれない」そんな態度では、絶対にこの恵みは受け取れません。

マルコの福音書
9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。

「信じる者は救われる」これは私たちの基本です。

「罪を離れ、義に生きられる」そう信じて疑わない人だけが、信仰による義を受けられるのです。

おわりに

信仰による義、それは本当に存在します。人は罪を犯さない者になれるのです。

初代教会は、まさにそのような人々の集まりだったと書いてあります。

コリント人への手紙 第一
6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
6:11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである

信じましょう。「信ずる者には、どんな事でもできる」しゅが言われたとおりです。

間違った神学は、私たちを救いから遠ざけるだけです。
今こそ、聖書の本当の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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