「信仰による義」とは
はじめに
聖書には、二つの義が示されています。
一つは、救い主を必要としない義。「律法の行いによる義」です。
もう一つは、救い主を必要とする義。「信仰による義」です。
ところが、この言葉には誤解の余地があります。
まるで、律法を守るか、守らないかが問われているように錯覚することです。
けれどその錯覚を、パウロは明確に否定しています。
「信仰による義」は、かえって律法を全うすることにつながるというのです。
これについて、ご一緒に聖書から確認してみましょう。
義とは何か
念のため、義とは何かを確認しておきましょう。
モーセは民の前で十戒を読み上げ、次のように言いました。
神の律法である十戒、それを守り行うことが、義です。
当然、使徒たちの認識も同じです。
律法を守り行うことが、義。
律法を守らない義、などという矛盾した教えは、聖書にはないのです。
どちらの義も、神の律法を全うすることが目的
「律法の行いによる義」も、「信仰による義」も、ともに神の律法を全うすることが目的です。
二つの義をもっとわかりやすく書くなら、「自分の行いで律法を全うする義」と、「信仰によって律法を全うする義」です。
二つの違いは、律法の全うの仕方なのです。
それを踏まえて、パウロの言いたかったことを読み取ってみましょう。
すなわち、人が律法を全うするのは、自分の力によってではなく、信仰によってであると言っているのです。
「自分の行いで律法を全うする義」は、人には不可能。
「信仰によって律法を全うする義」を選びなさいというのが、聖書の教えです。
信仰による義を得る方法
信仰による義、それは行いによって求めず、ただ受け取る人に与えられます。
これこそが、十字架の恵みであると聖書は教えます。
あなたはこの恵みを受けていますか?
受けていないとしたら、それはなぜでしょうか。
【その1】神の律法に服従する心がないから
主は、心においても十戒を守るようにと、何度も教えてこられました。
ところが現代、間違った教えのせいで、多くのクリスチャンが主の教えを無視して生きています。
十戒に心から服従しないなら、罪からの解放はありません。
神の律法を守りたいと願わない人には、それは与えられないのです。
【その2】自力で律法を守ったことがないから
律法こそが、私たちをキリストに連れて行く養育係なのです。
これを自力で守ろうとするなら、必ず私たちは自分の中にその力がないことを知り、キリストの必要性を感じるはずです。
これこそが、律法の役割です。
律法に心から服従し、自分の力ではけっして守ることができないと悟ったとき、初めて私たちはキリストにすがることができるのです。
この経験なしに、魂の奥底からキリストを必要とすることはできません。
【その3】信じていないから
「罪を離れ、義に生きられるかもしれない」そんな態度では、絶対にこの恵みは受け取れません。
「信じる者は救われる」これは私たちの基本です。
「罪を離れ、義に生きられる」そう信じて疑わない人だけが、信仰による義を受けられるのです。
おわりに
信仰による義、それは本当に存在します。人は罪を犯さない者になれるのです。
初代教会は、まさにそのような人々の集まりだったと書いてあります。
信じましょう。「信ずる者には、どんな事でもできる」と主が言われたとおりです。
間違った神学は、私たちを救いから遠ざけるだけです。
今こそ、聖書の本当の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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