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「信仰による義」と「義認」の違い

はじめに

「あなたを猫と見なします」
「あなたを猫にします」

この二つの文章は、まったく違うことを述べていますね。

もしこれを同じ意味だと考えるなら、書き手の意図をまったくみ取れていないことになります。

「義認」「信仰による義」についても、これと同じことが言えます。

この二つを区別していないなら、意図をみ取れないどころか、義認を受けることさえできません

実際、多くのクリスチャンが、義認を受けていない可能性があります。

これはとても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。

義認

義認に関して、パウロは次のように書いています。

ローマ人への手紙
4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

口語訳聖書

「認められる」という箇所には、「見なす(ロギゾマイ)」というギリシャ語が使われています。

すなわち、ここには仮定が含まれており、「義人でない人を、義と思うことにする」というニュアンスがあります。

義認とは、不法をゆるされ、罪を見なかったことにしてもらえることです。このことによって、神の律法を守ってこなかった私たちでも、キリストにつながり、信仰のスタート地点に立つことができるのです。

誰が義認を受けるか

義認は誰が受けられるとありますか? これが大切なのです。

ローマ人への手紙
4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

口語訳聖書

「不信心な者を義とするかたを信じる人」と書かれています。

ここに「見なす(ロギゾマイ)」という言葉は使われていません。「義とするかた」です。

この箇所を、新改訳聖書で見てみましょう。

ローマ人への手紙
4:5 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

あれ? と思いませんか。
「認める」という言葉が増えています。
「義とする方」が、「義と認める方」に変わっています。

原文はどうでしょう。
原文には「見なす(ロギゾマイ)」はありません。正しいのは、口語訳聖書のほうです。

ではなぜ、新改訳聖書は、「認める」という言葉を付け足したのでしょうか。

一般的なキリスト教神学の認識

一般的に、義認はどう認識されているのでしょう。

【義認】
キリスト教神学で,人間を罪の状態から義の状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikaioō (義たることを宣告する) という法廷用語から転用されたが,これがラテン語では justificare (義とする) と訳された。パウロによれば,人が神の前で義となるのはわざによるのでも,律法への従順によるのでもない。人間は神の前に義人として立つのではなく,神の恩恵に全面的に依存する罪人として立つ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

「義とする(ディカイオー)」という言葉自体に、「宣告する」の意味合いがあるというのが彼らの主張です。それで新改訳聖書は、「認める」という言葉を足しているのです。

しかしどうでしょう。
聖書は、「見なす(ロギゾマイ)」がある箇所と、ない箇所を、きちんと分けています。意識して、そう書かれているのです。

そして注意してください。
一般的には、「人は義人にはなれず、罪人のまま神の前に立つ」と信じられているのです。

罪人のまま神の前に立つ?

これは聖書の教えでしょうか。

ペテロはそうではないと答えるでしょう。

ペテロの手紙 第二
3:14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。

ヨハネはだまされるなと言うでしょう。

ヨハネの手紙 第一
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である

パウロさえも、そんなことは書いていないというでしょう。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

義人でないなら悪魔の子

私たちは、罪人のまま神の前に立つのではありません。
義人として神の前に立つのです。

仮の義人ではありません。
先ほどの聖句にあったように、しみも傷もない者、義を行う者、律法を確立した者として、神の前に立てるのです。

これはとても大切な認識です!

なぜなら、これによって神の子と悪魔の子が区別されるからです。

ヨハネの手紙 第一
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

もしも、義人とならず、「罪人のまま神の前に立とう」と考えているなら、再臨のとき、あなたは悪魔の子に分類されてしまうでしょう。

絶対にそうなってはいけません。

人は義人になれるのか

人は義人になれるのでしょうか。

絶対になれません、自分の力では

ローマ人への手紙
7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

ところが、十字架にはその力があるのです!

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

このことを信じますか? 私たちは癒やされたのです。罪を離れ、義に生きることができるのです。

これを信じることは、本当に大切なことです。

義認を受ける条件

原文に忠実な聖句を、もう一度よく見てください。
誰を信じる人が、義認を受けると書かれているでしょうか。

ローマ人への手紙
4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

口語訳聖書

「義とする方」です。「義と認める方」ではありません。
キリストは私たちを義人にできる、そう信じる人が、義認を受けると書いてあるのです。

義と義認の区別がついていない人は、この条件に当てはまりません。
「人は罪人のまま神の前に立つ」と信じている人は、義認を受けていない可能性があります。十字架の力を信じていないからです。

聖書の語る真実

まずは真実を直視してください。目をそらすなら、神の恵みを失ってしまいます。

マタイの福音書
13:49 世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け
13:50 そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

ペテロの手紙 第一
4:18 また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。

ガラテヤ人への手紙
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない

エペソ人への手紙
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない

ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない

私たちがどんなに「そんなはずはない」と言ったところで、聖書の言葉は変わりません。

これが神の基準なのです。

まずは、この重荷を負ってください
重荷を負わなければ、悔い改めることはできないからです。

神の恵み

ルカの福音書
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった──

「私にはこんな基準は満たせません! ただあわれんでもらうしかありません!」心からそう叫んだ人が、神の義を受けることができるのです。

間違ってはいけません。
この叫びは、「私はたくさんの罪を犯してきました」という程度のものではありません。
これは、自分にはまったく神の基準に到達する希望がないことを、心の底から知った人の叫びです。

兄弟を憎むなら、殺人の罪です。
情欲の目で人を見るなら、姦淫かんいんの罪です。
妬むことは、むさぼりの罪であり、金銭に頼ることは、偶像礼拝の罪です。

これらの罪と徹底的に戦うなら、あなたは自分の弱さを知り、打ちのめされるでしょう。
そうしてこそ、この取税人と同じ叫びができるのです。

まずは重荷を負うことです。
しゅは、そのような人を招いておられるからです。

マタイの福音書
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

重荷を負っていない人は、招かれていません。
神の基準に心から同意し、自分の無力さを知った人だけが、真にキリストにつながることができるのです。

信仰による義

義認と違って、信仰による義は、私たちが本当に義人に変えられることです。心においても律法を守ることのできる、本物の義人にしていただけるのです。

これをいただくには、自分がまったくの無力であり、神のあわれみにすがるしかないことを、心の底から知る必要があります。

「私はたくさんの罪を犯してきた罪人です」という認識では足りません。
「私には神の基準を満たす力が何もないことが本当にわかりました」という認識が必要なのです。

この認識を持つには、神の律法に心から服従しなければなりません。

ローマ人への手紙
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

神の律法に心から服従し、それを守りたいと求める人に、義が与えられるのです。

ガラテヤ人への手紙
5:5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。

よく見てください。これは義認とは違います。
信仰による義は、聖霊の助けによってなされる、聖化に属する働きなのです。

このことを信じるなら、あなたは必ず義人とされます。
罪人のまま神の前に立つのではありません。

ローマ人への手紙
5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。

おわりに

あなたは義人ですか?

「はい」と答えることを、私たちはためらいます。まるでそれが不信仰で、傲慢で、悪いことのように考えてしまいます。

では、質問を変えましょう。

あなたは、イエス・キリストの十字架が私たちを癒やし、義に生きられるようになることを信じますか?

信じる者になりましょう。信じる人を、この方は義人にしてくださるのです。
「はい」と答えられないのは、不信仰で、傲慢で、悪いことです。

「人は義人にはなれず、罪人のまま神の前に立つ」という教えは、間違いです。

偽りの神学を捨て、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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