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よちよちクリスチャンの聖書ノート

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幼子のようなクリスチャンの私が、幼子のような目で聖書から発見した真理をお伝えします。
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#律法

聖書は本当は何と言っている?

聖書、それは一体誰のものでしょう。 聖書自身が次のように教えています。 世の中にはたくさんの聖書解釈があります。そして、それらは必ずしも一致するものではありません。そんな教派の一つを、自分の信じるものとして採用してしまってもいいものでしょうか。イエス様の時代、パリサイ派とサドカイ派、どちらが正しかったでしょう。 残念ながら、どちらも間違っていました。 人々が真理に立つには、主流派の神学から脱出する以外になかったのです。 正しいのは、神の言葉、聖書だけです。つまり、私たち

人はなぜ滅びるのか

はじめに聖書は、人の滅びについて語っています。 神様は、人を滅ぼしたいのでしょうか。 いいえ。 神様は、すべての人が救われることを望んでおられます。 それなら、なぜ人は滅びるのでしょうか。 これはとても大切なことですから、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 人の選択権先ほどの聖句にあったように、神様は、どのような人が滅びることも望んではおられません。 仮に、神様が一方的に人の運命を選ぶのだとしたら、すべての人が救われることを選ぶでしょう。 そうなさらないのは

新約とは

はじめに「旧約」「新約」とは何でしょう。 それは契約です。 聖書は、「古い契約」と「新しい契約」について教えてくれます。 私たちは誰でも、神と契約を結ぶことができるのです。 その契約の内容とは、一体どんなものでしょうか。 誤解を生んできた教えまずは、一般的に教えられている解釈を見てみましょう。 あながち間違いではありませんが、これは大変な誤解を生みます。 それは、「新しい契約に入った人は、律法を守らなくてよくなる」という誤解です。 断じてそうではない、と聖書は

なぜ律法があるのか

はじめにあなたは律法が好きですか。 クリスチャンであっても、意見が分かれるのではないでしょうか。 律法とは何でしょう。 神様は、どうして律法をお与えになったのでしょうか。 これを正しく知らなければ、真のクリスチャンとはいえません。 今、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 律法がなければ罪がない?多くのクリスチャンが、勘違いしていることがあります。 それは、「律法がなければ罪はない」とか、「律法が罪を制定した」という認識です。 そうではありません。 先にあったのは

律法は律法ではない

はじめに律法は律法ではない。どういう意味でしょう。 実のところ、ヘブライ語の「律法(トーラー)」という単語には、「律法」という意味は全くないそうです。 本来なら、「教え」とするのが正しいそうです。 「律法」と「教え」、確かに全然印象が違ってきます。 「律法」と言われると、決まりに縛られて、行動を監視されているようで、びくびくしてしまいます。 ところが、「教え」と言われるなら、やる気と感謝が溢れてきます。 トーラーとは何かもしあなたが陸上選手だとして、「速く走るため

なぜ十戒が大切なのか

はじめに律法にはいくつかの種類があります。キリストを予表するもの、違反を指し示すもの、民を異邦人から隔てるもの── その中でも、特別な律法があります。ただそれだけが石の板に書かれ、契約の箱に入れられ、聖所に運び込まれました。 そう、十戒です。 なぜ十戒は特別扱いされるのでしょうか。 そこには、私たちが絶対に知っておかなければならない事実があるのです。 十戒とは何かその文面は、出エジプト記20章や、申命記5章に書かれています。 これが十戒です。 要約すると、次のよ

律法主義とは

はじめに律法主義とは何でしょう。 多くのクリスチャンが、この言葉を間違って使っています。 今、正しく認識することで、聖書の恵みに与りましょう。 律法を守ることは律法主義か律法を一生懸命守ろうとする人を、律法主義だと非難する人たちがいます。 これは間違いです。 イエス様は、すべての律法を守り通しました。 私たちにも、同じ歩みが求められています。 ここで使われている「戒め(エントレー)」という言葉は、神の律法である十戒を表す言葉です。 これはモーセ律法とは区別されます

なぜ割礼が不要になったのか

はじめに聖書を読んだことのある人であれば、神様が民に割礼を命じているのを読んだことがあると思います。 また、割礼があってもなくても問題ではないという言葉も読んだことがあるかもしれません。 神様の考えが変わったのでしょうか? このことは、初代教会でも論争になったと聖書は記しています(使徒15:5)。 どうして、割礼は問題ではなくなったのでしょうか。 これについて知っておくことは、真理を理解する上で、とても大切なことです。 ご一緒に、聖書から確認してみましょう。 割

律法を守るべきか、よく分からない方へ

はじめにかつて私は、クリスチャンでありながら、律法を守る必要はないと思っていました。 もっと正確に言うと、「互いに愛し合いなさい」というキリストの律法、これだけが有効で、あとは無効になったのだと考えていました。 多くの方が、同じ状況におられると思います。 しかし、それは間違っています。 これは命に関わる大切なことですから、慎重に聖書から確認してみましょう。 無律法主義の出所律法が無効になったという考え方は、次のような聖句から来ています。 最後の文を読むか読まないかで

これが律法からの解放です

はじめに聖書は、キリストを知った私たちが、律法から解放されることを約束しています。 「律法からの解放」とは何でしょうか。 もしかして、「律法を守る必要がなくなり、罪を犯しても裁かれなくなった」と考えてはいませんか? 罪を犯す人は滅びるクリスチャンに向かって、聖書は次のように教えます。 まずはこのことを覚えてください。 律法からの解放とは、律法を守らなくてもよくなったことではありません。 そもそも、律法がなければ罪とならないのではありません。 律法からの解放とは聖書

私が安息日を守るようになった理由

はじめに前回は、私が日曜礼拝をやめた理由を書きました。 今回は、安息日を守るようになった理由を書きたいと思います。 前回はこちら→『私が日曜礼拝をやめた理由』 皆さんは、安息日と聞くと、どのような印象を持たれるでしょうか。 「律法主義」 「特定教派の思い込み」 「十字架で廃された」 「ユダヤ人の決まり」 そんな印象を持つのではないでしょうか。 私もそうでした。 それでも、今は安息日を守っています。 その理由について、皆さんも知っておいて損はないと思います。 以前

「御子を信じる者」とは

はじめに聖書は、御子を信じる者が一人も滅びないことを約束してくれます。 このすばらしい約束に、私たちは必ず与らなくてはなりません。 そのためにも、今日、自分が「御子を信じる者」になっているか、しっかりと確認しておきましょう。 そもそも、御子は何を教えていたのか御子イエスは、一体、何を教えていたのでしょうか。 一言で言えば、それは、十戒の精神です。 当時の人たちは、そのようなことをみな守っていました。 一体、何が足りなかったのでしょうか。 足りなかったのは、十戒の精

クリスチャンは食物や服装をどうすべきか

はじめに次のような聖句を使って、人々を恐怖に陥れている人がいます。 外国の服を着る人や、豚肉を食べる人は、罰せられ、滅びるというのです。 今日、これらの聖句とどう向き合うべきか、きちんと確認しておきましょう。 もし食物や服装で滅びるとしたら仮に、外国の服を着る人や、豚肉を食べる人が、すべて滅ぼされるとします。 その場合、異邦人クリスチャンは、そのほとんどが服装や食べ物のことで滅ぼされてしまうでしょう。 怒りや妬みを注意している場合ではありません。異邦人伝道者は、とにも

安息日を回復しよう

はじめに聖書を読めば誰でもわかるように、神様は安息日を定めておられます。 しかし安息日を守る人は少なく、多くの教会で日曜礼拝が行われています。 安息日はどこへ行ってしまったのでしょうか。 これは私たちの永遠の命に関わる問題ですから、聖書から慎重に調べてみましょう。 安息日はモーセ律法とともに無効になった?日曜礼拝を行う人たちの主張の一つに、安息日はモーセ律法とともに無効になったという主張があります。 これはモーセ律法のことです。 一方、十戒や安息日は、あとから加えら