律法を守るべきか、よく分からない方へ
はじめに
かつて私は、クリスチャンでありながら、律法を守る必要はないと思っていました。
もっと正確に言うと、「互いに愛し合いなさい」というキリストの律法、これだけが有効で、あとは無効になったのだと考えていました。
多くの方が、同じ状況におられると思います。
しかし、それは間違っています。
これは命に関わる大切なことですから、慎重に聖書から確認してみましょう。
無律法主義の出所
律法が無効になったという考え方は、次のような聖句から来ています。
最後の文を読むか読まないかで、意味がまったく逆になってしまいます。
パウロは、信仰によって律法が無効になることは断じてなく、むしろ律法を確立するのだと教えています。
無律法主義は、パウロ書簡の一部を切り取った曲解であることを覚えてください。
律法を守るべきか
「律法を守るべきか」というその質問自体について考えてみましょう。
私たちは、救われるために呼吸をする必要はあるでしょうか。
いいえ。呼吸によって救われるのではありません。
「だったら呼吸をしない!」そんな人がいるでしょうか。
救われるために呼吸をするのではありませんが、
呼吸をしないなら死んでしまいます。
それと同じです。
救われるために律法を守るのではありませんが、
律法を守らないなら死んでしまいます。
たとえあなたが律法を無視しようとも、罪を犯せば滅ぶのです。
律法が与えられたのは、私たちが罪を犯さないようになるためです。
「これに違反することが罪なんだよ」と、神様が教えてくれているのです。
それなのに、なぜ律法を嫌う人がいるのでしょうか。
それは、サタンがそのように計画し、毒麦を植えたからです。
思い出してください。
生まれながらの私たちは、火の池に向かってまっしぐらに歩んでいました。
そんな私たちを憐れみ、律法を与え、そっちへ行ってはいけないと教えてくれた方、それが神様です。
その神様は、人となって来られ、心においても律法を守る必要があると教えてくれました。
これを、鎖だ、軛だ、呪いだ、重荷だと言っていた私たちは、今こそ悔い改めなければなりません。
それでも罪を犯し続けるとどうなるか
それでもクリスチャンが律法を無視し続けるならどうなるでしょうか。
律法を無視することは、火の池にまっすぐ突き進んで行くのと同じです。
律法なしに、どうやって罪を避けるのでしょう。
律法に感謝しない人に、未来などないことを覚えてください。
聖書の教える愛
聖書の教える愛は、人間の感情的な愛とは異なります。
「戒め(エントレー)」という言葉は、多くの場合、十戒のことを指します。
するとある人は、こう言うでしょう。
「いいや、『戒め』とは、互いに愛し合うべきこと、それだけである」と。
その根拠というのが、以下の聖句です。
しかし原文には、「ヒナ(それは~のため)」というギリシャ語があり、本当はこう書いてあります。
互いに愛し合うために、戒め(エントレー)が与えられたと書いてあるのです。
翻訳は、人の思惑によって、変えられてしまうことを覚えてください。
たとえば以下の翻訳は、原文をまったく逆の意味で訳してしまった例です。
この翻訳は、長らく人々の目にさらされてきました。
「天地が滅び行くまでは律法の一点、一画も廃れない」という主の言葉を、何十年も否定し続けてきたのです。
とはいえ、さすがにひどい間違いだというので、今は修正されています。
それでも、いったん間違いを信じてしまった人の心は、なかなか変わるものではありません。
新しい戒め
またある人は、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めができたので、十戒は廃されたと教えます。
本当に、この新しい戒めは、十戒を廃したのでしょうか。
互いに愛し合えば、もはや姦淫したり、殺したり、盗んだりしてよい、そう書いてあるでしょうか。
よく見てください。普通の国語力があれば、正しく読めるはずです。
互いに愛し合うことこそ、十戒を全うすることであり、
十戒を守ることは、隣人を愛することに帰すると書いてあるのです。
このことを、弟子たちはちゃんと理解していました。
書き送られたのは、古い戒め(エントレー)だとあります。
それを、新しい戒めとして、もう一度書いているのです。
すなわち、十戒を愛によって実践すること、それが新しい戒めだと聖書は教えているのです。
もう騙されないでください
サタンは、まるで律法が悪いものであるかのように、私たちの心に刷り込みます。
そんな欺きからは、今日で解放されてください。
律法は、神様が造った善いものです。
律法は、私たちを罪から守る城壁です。
律法は、義に生きる方法を提供する教科書です。
神様は、けっして守ることのできない無理難題を押しつけて、私たちを焼き尽くそうと待ち構えている方ではありません!
むしろ、人々が罪を犯さないように聖なる律法を与え、守れなかった分をご自分が背負って死んでくださるようなお方です。
もう、この方を、これ以上誤解し、侮辱してはなりません。
おわりに
「律法を守るべきか」ではありません。
律法が与えられた理由を正しく知るなら、守らずにはおられないはずです。
律法に感謝し、守り行う人だけが、聖徒と呼ばれます。
そのような人だけが、主との婚姻に与るのです。
正しい行いとありますが、原文では律法遵守です。
律法遵守、これこそが、婚姻のときに着ていなければならない衣服です。
この服が汚れていることが罪であり、白く保たれていることが義です。
これは主がくださった衣です。
この衣を、私たちは白く保ち、万が一汚れてしまったら、子羊の血で洗ってもらう必要があるのです。
再臨の日、真っ白な婚宴衣装を着ていないなら、その人は外の暗闇に放り出されてしまうでしょう。
この数少ない選民に、あなたは選ばれなければなりません。
そのためにも、間違った教えを捨てて、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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