ヘルプマーク
最近、視力が落ちた。健康診断の視力検査で判明した。今までの視力が裸眼で両目共に1.5もあったのに、1.0と0.9まで落ちた。
全く私生活も送れてるし急に見えづらいっていう自覚症状なんてなくて、視力が落ちたっていう実感すらなかった。単純に疲れ目だと思っていた。
有り難いことに周りの人からはよく、目が大きいとか二重がキレイって言ってもらえるから、自分の目というのはお気に入りというか自信の持てる部分でもあった。その目が、まさか視力が落ちてきているなんて本当に悲しかった。人生で一度も度入り眼鏡やコンタクトをしたことがなくて、大切にしていたのに。
この身体が衰えていく、出来ることが出来なくなっていく感覚はきっと年配の方やヘルプマークを付けている方、事故や病気に罹ったが1番味わっている感覚なのかなとふと思った。
おばあちゃんは近くにあるスーパーに買い物に行ったり、家の周りの花壇の世話や料理をするのが好きだった。けれど、歳も歳で段々と衰えていって今では歩行器で家を歩いているし、介護用ベットで寝る事が増えた。そして好きだと言っていた買い物や料理も出来なくなった。
お母さんはケアマネをやっていたけれど、元々身体がそこまで強い人ではなくて、医療業界で精神面、激務による身体面で身体を壊していった。壊していったというより、自分たち家族のために頑張って働いてくれたという言い方が良いのかもしれないけれど、もっと自分に家族を養える程の仕事が出来る人であればそうならずに済んだのかもと悔やんだ時もあった。
段々とやりたい事が出来なくなっていく感覚は誰もが通る道のりだけれど、自分が楽しみ、自信がある物であればあるほど悔しくて悲しい思いをするのだと思う。
お母さんは、今ではヘルプマークを付けている。脳動脈瘤の手術による頭痛や、狭心症による突然の発作、股関節の人工関節。
ヘルプマークの裏側の表記を見たことがある人はいるだろうか?ヘルプマークを付ける要因となった病名や外的要因の状況が記入されていて、万が一倒れたり発作により意識が無くなった時の処置方法や、緊急連絡先、かかりつけ病院の連絡先などが記入されている。これは大体が患者さん自身が手書きで記入するもので、自分が万が一の時は発見した周りの人はこうしてくださいと書かれている。
このヘルプマーク、大体の人は十字架が表になるように付けている(個人情報の記入がある)ため、裏の文章が見えない。そのため傍から見たらどのような状態の人なのかを外見で判別することは難しい。
だからヘルプマークを付けている人を見かけたら、必ず声がけや配慮をしてほしいと思う。ヘルプマークを付けている人たちは、付けていない人に対して「私は〜が出来ません、聴こえません、見えません。私が〜の時は〜へ連絡してください、〜をしてください。〜のため公共交通機関では、席を譲れない時があります。申し訳ございません。お手伝い宜しくお願い致します。」など、大体の場合は依頼文や謝罪の文を記入している。なりたくてなった訳じゃない病気なのに、周囲の人に頭を下げなければ認められない世の中は冷たいと感じる。だから、本当にどうか不自由な人を助けて欲しい。
自分もいつかヘルプマークを付ける日が来るのかも知れないけれど、その時は迷わず他人にでも頼れる世の中になっていて欲しい。
そしていつも感じるのが、こういう自由、不自由のある人という書き方をすること自体が、その人に対する差別なのではないか?と思ってしまう。
勿論配慮をするのは必要な事であって、不自由な人がいるのであれば優先されるべきだと思うが、自由か不自由かはその人自身が決める事であって、何も知らない赤の他人に決められる訳がない。この差別という考え方?捉え方についての自分なりの答えが出せるようになりたいと、最近思うようになった。
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